舞台は東京下町のさびれた駄菓子屋。
おばあちゃんに代わって、店を切り盛りする太郎(オダギリジョー)のもとに、元同級生の無職 (勝地)や、後輩のニート、先輩のつぶれかけた風呂屋などが集ってきては、駄菓子を食べながら「今の世の中これでいいのか?」「俺たちにできることはないのか?」みたいなことを語り合う。
舞台の大半は、駄菓子屋の裏庭です。
ドラマチックなことはほとんどありません。
でも、すごく楽しいです。
たった30分ですが、ほのぼのするし、
切なくなるし、やりきれなくもなるし、
感動するし、考えさせられるし…
ものすごく、奥が深いというか。
「この駄菓子屋はいずれ確実につぶれる でもこの駄菓子屋は無意味で無駄なものだとどうしても思えないのだ」
ドラマは毎回、冒頭のオダギリジョーのモノローグからはじまります。
この言葉通り、太郎達のコミカルな主張や日常を、面白おかしくとらえつつも、ドラマは最終的には「人生に、無意味で無駄なものなんかない」ということを常に言い続けています。
駄菓子屋にも、
駄菓子屋の裏庭にも、
子供時代にも、
ニートの過ごす時間にも、
世間から見たら非効率的で非生産的だと思われる物の中にも、
大切なものはある。
っていうことを、
現代社会のスピードや厳しさについていけず
取り残されてしまった人たちが、訴えるわけです。
セリフと演出が本当にうまくて、私なんか、
毎回毎回、見終わって「ほお」って感じです。
※監督は、「舟を編む」で日本アカデミーを獲得した石井裕也監督。さすが。
特に私が感動したのは
藤原竜也さんがIT社長として登場した回。
<<確かこんな話です>>
いつものように駄菓子屋の裏庭で
くだらない話をしている太郎達。
かつての同級生が年収1億円のIT社長になったことを知る。
「こんなところでくすぶっている俺たちなんか
上から目線でバカにされるのでは?」と不安な太郎達だったが、
現れた同級生はそんな素振りもみせず、
「立ち止まって考えるのは大切だ」
「俺もお前たちみたいにしたい」
むしろ、太郎達の自由をうらやむ。
思い出話に花が咲き、意気投合する太郎達。
飲みに出かけたお店で、太郎は元同級生に、
「会社の人に」と、照れ臭そうに駄菓子をプレゼントする。
元同級生は、そのお返しに、自身が経営するレストランに招待する。
当日、めかしこんだ太郎達はレストランへ出かける。
出迎える元同級生。すごく幸せそう。
後日、太郎は、元同級生が脱税の容疑で逮捕されたことを知る。
プロットに起こすと、こんなもんです。
こんなもんですが、すごく面白いです。
時代の流れに取り残された人
時代の流れにあらがう人
時代の流れに乗った人
世の中、色んな人がいます。
それぞれに人生があって、それぞれの選択があります。
このドラマが面白いのは
誰がいいとか、誰が悪いとかではなく、
むしろ、みんな辛く・苦しいと言っているところです。
特にこの回では、藤原竜也さん演じる元同級生の
「苦しくて苦しくて、走るのをやめたい、でも立ち止まれない」
そういう現代社会を生きる人たちの苦悩を
しっかり(でもあざとくない)描いているところに好感を持ちました。
※私見ですが、今の世の中は、みんな「このままじゃダメ」と思っているのに
誰もとめられない、流れを変えられない、壊れかけた世の中に見えます。
太郎から駄菓子をプレゼントされたIT社長は
どんな気持ちであれを受け取ったんでしょうね。
あのシーンだけで、色んなものが見えたような気がしました。
現在第5話。
あと少しですが
楽しみに見守っていきたいです。
2015年11月25日水曜日
2015年11月18日水曜日
映画目録「NO」
<あらすじ>
舞台は1988年当時の南米チリ。当時、独裁を強いていたピノチェト政権に対し、国際世論が介入。ピノチェト政権のYESかNOかを問う、国民投票が実施されることになり、各陣営で投票前の1ヶ月間、テレビCMを放送することに。本当は「NO」だけど、長年自由を奪われてきた国民たちは「どうせ何をやっても無駄だ」とあきらめムード。「YES」派の圧倒的有利が囁かれる中、一人の若き広告マン、レネ(ガエルガルシアベルナル)が「NO」を掲げ、敢然と立ち上がる。※実際に起こった出来事をモチーフにした映画です。
<多分ここが面白いところ>
NO陣営のCMは当初、ピノチェト政権のこれまでの悪行を訴え、正義や秩序の回復を訴えるものでした。しかし、レネは「これでは人は動かない」と反対。ロゴを虹を用いたカラフルなものにしたり、テーマソングを作ったり…コカコーラのCMのような「明るく・楽しい」CMを提案します。長年、暗殺、拷問など不当な人権侵害に苦しんでいた人々は「分かってない」「軽すぎる」猛反対。でも、レネはあきらめません。自分なりのやり方で、徐々に周囲を巻き込んでいきます。
伊坂幸太郎の小説に「悪に立ち向かうのは、正義じゃない、勇気だ」というセリフがありますが、この映画にも似たようなものを感じました。どれだけ正しかったとしても、人は正義だけでは動いてくれないんですね。コカコーラのようなCMがいいのか悪いのかはさておき、「悪に立ち向かう勇気」だけでなく、「常識にとらわれない勇気」が相まって、徐々に世論を動かしていく、というのがとても面白く感じられました。私が、広告畑の人間ということもあるでしょうが。
<印象的なシーン>
ラストシーンですね。国民投票で多数派となったNO派は、見事、ピノチェトを引きずり下ろすことに成功します。周囲が狂喜乱舞する中、レネはほとんど喜びを示しません。「終わった」みたいな感じで。ただ、町に出て、みんなが嬉しそうにしているのを見て、微笑みます。それで、映画は終わりです。もっと盛り上がってもいいんじゃん?という意見もあるようですが、私は、これを見て、この映画がどういうものなのか、分かったような気がしました。
というのも、映画を見て、ずっと疑問に思っていたんです。なぜ、レネは「NO」キャンペーンに力を貸したのか。自由のため? 国民のため? 未来のため? 自分のため? 独裁政権に刃向うわけですから、当然、リスクを伴います。事実、付け回されたり、嫌がらせの電話を受けたりします。それでも、レネは一歩も引きません。なぜなのか? 断片的な情報として、「妻が活動家であり、始終、権力者に立てついては痛めつけられていること」「妻は家を出て、他の男と暮らしていること(レネはまだ彼女が好きっぽい)」「レネは上司の広告マンとライバル関係にあり、YES陣営に加わった上司に負けたくないと思っている」などが明らかになっていますが、直接的な動機には結びつかないような気がしました。
本来、こういった主人公の心の動きは「ドラマの核」となるはず……それが一切語られないというのは、作り手が「あえてそうしたから」だと思います。これはあくまで推論なのですが、レネは、政治的活動としてNOキャンペーンに加わったのではなく、あくまでも一人の広告マンとして「NO派の広告を作った」のではないでしょうか。ただ依頼された仕事を、成功に導くために、最善を尽くした。そう考えると、いまいち盛り上がりに欠けたラストシーンに納得がいきます。私もイチ広告の作り手として、こういう態度って、よく分かるんですよね。営業とかはヤッター!ワーイ!みたいになるんですけど、こっちとしては「無事にいってよかった」それだけなんです。でも、お客様のところにいって、実際に喜んでいる姿を見ると、なんかほっこりするというか、実感がわくというか。つまるところ、NOという映画は、「正義によりかからない」アイデアで切り拓く」「常識を恐れない」、広告としてのあるべき姿を示した作品だったんじゃないかなと思います。
2015年10月28日水曜日
映画目録「明日へのチケット」
<あらすじ>
舞台は国境を越えてローマへ向かう列車の中。偶然、居合わせた乗客達の一夜限りのオムニバスドラマ。1話目は、若い女に心を奪われて妄想をたくましくする初老の男性の話。2話目は老人の世話をすることで兵役を逃れようとした若者が、結局は自分勝手な中年のおばさんに振り回される話。3話目はチャンピオンズリーグの応援に行くセルティックのサポーター3人組が切符をなくして騒ぐ話。そこに、移民の家族が加わっていく感じ。
<多分ここが面白いところ>
近しい場所で、長い間接しているにもかかわらず、何の関わり合いもない「乗客」という関係に注目したのは面白いなと思いました。普段は気にもとめませんが、車内にいる人の数だけ、人生があって、考え方も異なるんですよね。何かの事件があって犠牲者の際に、北野武が「犠牲者が1000人と考えると実感がわかないけど、1人1人の人生があって、それが1000個失われたと考えると、どれだけ悲惨かよく分かる」と言っていましたが、そんな感じでしょうか。登場するそれぞれのキャラクターが濃くて、面白かったです。とくに、セルティックのサポーターのバカさとか、清々しさ抜群でした。
<印象的なシーン>
話自体は3話目が面白いのですが、1話目のラストが印象に残りました。
▼
初老の男性が食堂車でぼんやり物思いにふけっています。食堂車は混んでいますが、初老の男性の隣は誰もいません。なぜなら、快適に過ごすために1人で2席分のチケットをとったからです。それをいいことに初老の男性は「あの女ともう一度会いたい、会って、あんなことやこんなことをしたい…」妄想全開(いいご身分だなあ)。そんな時、初老の男性は、ドアの向こうのタラップに、食堂車に入ることを許されない移民の親子が身を寄せ合っているのに気づきます。移民達は赤ん坊にミルクをあげようと哺乳瓶にお湯を入れるのですが、高圧的な兵士が「邪魔だどけ!」ってやってきて、ミルクが床に倒れてしまう。お腹を空かせた赤ん坊が泣きだす。残酷な現実を前に、それまで、和やかだった車内が一気に緊張感を増します。初老の男性も、自分の身勝手さを顧みて、妄想を中断します。そして、しばし悩んだ後、食堂車のスタッフを呼びとめるとミルクを頼みます。そして「温めてくれ」と付け加えます。それを聞いた乗客達の表情がほっと和らぎます。そして、ミルクがやってくると、初老の男性はそれを手に食堂車を出ます。この間、セリフは一切ありません。幸せというものの脆さや、人間の善なる部分を表現した、とてもいいシーンだと思いました。
※赤ちゃん用の粉ミルクと市販の成分無調整のミルクはそもそも違います。せっかく持って行っても赤ちゃん飲めなかったんじゃないかな、と思いましたが、まあ、それはそれ、これはこれということで。
2015年10月15日木曜日
映画目録「ブレッドアンドローズ」
<あらすじ>
姉を頼りに、メキシコからLAにやってきた移民のマヤ。姉のローサの紹介で、清掃員として働きだすが、そこは移民の弱みに付け込んで低賃金でこきつかう「今でいうBLACKな環境」だった。そんな中、マヤは偶然、労働組合員のサムと知り合う。「声を上げなければ、自分達の権利は勝ち取れない」と説くサムに心惹かれ、運動にのめりこんでいくマヤ。一方、病気の夫や子供二人を養うのに手一杯のローサは、それを冷ややかな目で見つめる。
<多分ここが面白いところ>
・マヤとサムの出会いが素敵
警備員に追われているサムを、清掃員のマヤがかくまってあげることで二人は知り合うのですが、そのコミカルなやりとりは「ローマの休日」を思い起こさせます。マヤは不法入国の移民。サムは組合の白人男性。身の上の異なる二人を「互いに意識させる」のに十分な出会いだったと思います。
・マヤが可愛い!
マヤは、若くて世間知らずで、とても勝気で、そしてものすごく素直な性格です。嬉しいことがあればもろ手を挙げて喜び、納得いかないと思えば手をぶんぶん振って異を唱える。思い込んだら、すぐに行動に移しちゃう。午前3時だろうが、お構いなし。移民=可哀想という図式が一般的だし、事実、その通りなのですが「移民という社会問題」をそのまま取り上げようとすると、どうしても映画が重たくなりがちです。その点、陽気なマヤのキャラクターがずいぶん、映画の印象を救っていると思います。
<印象的なシーン>
運動に手を染めた同僚を会社に密告した姉のローサを、「裏切り者!」とマヤが詰め寄り、それに対してローサが言い返すシーンがあるのですが、それがとにかく堪えます。早くに米国に渡ったローサは、長い間、メキシコにいる家族に送金してきましたが、実は、その金はローサが売春した金、文字通り体で稼いだ金だったのです。それに、そもそもマヤがLAで清掃員の仕事につけたのも、ローサが係の男にやらせてやったから…(涙)。「黒いのも、白いのも…私は世界中のチンポをくわえてきた。いつも尻拭いは私。かわいそうなローサ。誰も同情してくれない」そう言って、自分をせせら笑うローサに、「私は知らなかったの。何も知らなかったの」というだけのマヤ。どこのどんな世界でもそうですが「唯一絶対の正義」というものは存在しません。生きる人の数だけ、言い分があります。マヤの中の正義が大きく揺らぐのと同時に、移民達が置かれている絶望的な状況をよく表している、とてもいいシーンだと思いました。
姉を頼りに、メキシコからLAにやってきた移民のマヤ。姉のローサの紹介で、清掃員として働きだすが、そこは移民の弱みに付け込んで低賃金でこきつかう「今でいうBLACKな環境」だった。そんな中、マヤは偶然、労働組合員のサムと知り合う。「声を上げなければ、自分達の権利は勝ち取れない」と説くサムに心惹かれ、運動にのめりこんでいくマヤ。一方、病気の夫や子供二人を養うのに手一杯のローサは、それを冷ややかな目で見つめる。
<多分ここが面白いところ>
・マヤとサムの出会いが素敵
警備員に追われているサムを、清掃員のマヤがかくまってあげることで二人は知り合うのですが、そのコミカルなやりとりは「ローマの休日」を思い起こさせます。マヤは不法入国の移民。サムは組合の白人男性。身の上の異なる二人を「互いに意識させる」のに十分な出会いだったと思います。
・マヤが可愛い!
マヤは、若くて世間知らずで、とても勝気で、そしてものすごく素直な性格です。嬉しいことがあればもろ手を挙げて喜び、納得いかないと思えば手をぶんぶん振って異を唱える。思い込んだら、すぐに行動に移しちゃう。午前3時だろうが、お構いなし。移民=可哀想という図式が一般的だし、事実、その通りなのですが「移民という社会問題」をそのまま取り上げようとすると、どうしても映画が重たくなりがちです。その点、陽気なマヤのキャラクターがずいぶん、映画の印象を救っていると思います。
<印象的なシーン>
運動に手を染めた同僚を会社に密告した姉のローサを、「裏切り者!」とマヤが詰め寄り、それに対してローサが言い返すシーンがあるのですが、それがとにかく堪えます。早くに米国に渡ったローサは、長い間、メキシコにいる家族に送金してきましたが、実は、その金はローサが売春した金、文字通り体で稼いだ金だったのです。それに、そもそもマヤがLAで清掃員の仕事につけたのも、ローサが係の男にやらせてやったから…(涙)。「黒いのも、白いのも…私は世界中のチンポをくわえてきた。いつも尻拭いは私。かわいそうなローサ。誰も同情してくれない」そう言って、自分をせせら笑うローサに、「私は知らなかったの。何も知らなかったの」というだけのマヤ。どこのどんな世界でもそうですが「唯一絶対の正義」というものは存在しません。生きる人の数だけ、言い分があります。マヤの中の正義が大きく揺らぐのと同時に、移民達が置かれている絶望的な状況をよく表している、とてもいいシーンだと思いました。
2015年9月25日金曜日
映画目録「ゴースト・ワールド」
<あらすじ>
イーニドとレベッカは幼馴染み。何かに熱中する人を「あいつはバカ」「こいつはクズ」とこきおろし、十代の多感な時を無為に過ごしてきた。高校卒業後、家を出て、二人で一緒に暮らす計画を立てるが、仕事を見つけて社会になじんでいくレベッカに対し、イーニドはつまらないことで揉めて仕事を首になるなど、一向に進歩がない。レベッカとも徐々に疎遠になり、寂しさを覚えるイーニドは、ある日、レコードコレクターのさえない中年男性と知り合い、はみ出し者同士、徐々に惹かれあっていく。
<多分ここが面白いところ>
・淡々と孤独を描いているところ
十代は誰にとっても、多かれ少なかれ孤独なものです。「どうして誰もわかってくれないんだ」とか「みんな死ね」とか「自分だけは特別だ」とか。暴力とか、いじめとか、ドラッグとか、そういうツールを使って描くのは割と簡単ですが、本作ではそういうのを一切使わないで、正面から「孤独」を描いています。親友がいるけど、別に心の友ってわけじゃなくて、単に暇を潰す仲にすぎなくて、でも、いないよりはマシで、とりえあずキープって感じなんだけど、いざいなくなってみるとやっぱり寂しくて、周りを見回してみたら私なんていてもいなくても関係ない、誰も必要としていないのに気付いて、だったら、誰も自分を知らない、ここじゃないどこかに行きたくなった…みたいな。書いていると鬱々としてきますが、この作品はそういう暗さも特にありません。共感も同情もしない代わりに、批判も評価も一切なし。淡々と進んでいきます。その「淡々さ」にむしろリアリティを感じました。
・意味のない会話に意味があるところ
といっても別に伏線になっているとか、そういうわけじゃありません。たとえば、イーニドとレベッカの間で「やる」という表現がよく出てきます。「あいつと超やりたい」とか「やらなすぎてストレスたまってきた」とか「とりあえずやる」とか「すげーやりたい」とか。よく聞いてみると分かるのですが、二人の会話はこのように、ほぼ会話になっていません。そもそも趣味も全然合ってないし。それでも会話になってしまうのが十代のリアルなのかもしれませんが、私は、その裏に「親友面した軽薄な関係」というのも見え隠れしたような気がしました。実際、二人は高校を卒業したら疎遠になっていったわけですし(私も若い頃にこういう関係が多々ありました)。作品を作ろうとした場合、話を早く前に進ませたくて、「打てば響くような会話」を作りがちですが、本作のように「キャッチボールになっていないぶつ切りの会話」も、そこに意味があるなら、ありだなと思いました。
<印象的なシーン>
映画は「世の中の一切を小馬鹿にして、興味を持たないイーニドが、なぜか、来ないバスを待っているボケ老人に心を惹かれる」という設定なのですが、それはもちろん、「現実からの逃避」を意味します。空想レベルではなく、「物理的に逃げ出したい」ということなのだと思います。ラストシーンでは、絶望したイーニドの前に、来るはずのなかったバスがきます。そして、イーニドはバスに乗ってどこかへ去っていきます。「自立」なのか「自殺」なのか、結論は特にありません。すっきりしないけど、私は、こういう映画なら、結末は観る人に委ねる、というのもありかなと思いました。
イーニドとレベッカは幼馴染み。何かに熱中する人を「あいつはバカ」「こいつはクズ」とこきおろし、十代の多感な時を無為に過ごしてきた。高校卒業後、家を出て、二人で一緒に暮らす計画を立てるが、仕事を見つけて社会になじんでいくレベッカに対し、イーニドはつまらないことで揉めて仕事を首になるなど、一向に進歩がない。レベッカとも徐々に疎遠になり、寂しさを覚えるイーニドは、ある日、レコードコレクターのさえない中年男性と知り合い、はみ出し者同士、徐々に惹かれあっていく。
<多分ここが面白いところ>
・淡々と孤独を描いているところ
十代は誰にとっても、多かれ少なかれ孤独なものです。「どうして誰もわかってくれないんだ」とか「みんな死ね」とか「自分だけは特別だ」とか。暴力とか、いじめとか、ドラッグとか、そういうツールを使って描くのは割と簡単ですが、本作ではそういうのを一切使わないで、正面から「孤独」を描いています。親友がいるけど、別に心の友ってわけじゃなくて、単に暇を潰す仲にすぎなくて、でも、いないよりはマシで、とりえあずキープって感じなんだけど、いざいなくなってみるとやっぱり寂しくて、周りを見回してみたら私なんていてもいなくても関係ない、誰も必要としていないのに気付いて、だったら、誰も自分を知らない、ここじゃないどこかに行きたくなった…みたいな。書いていると鬱々としてきますが、この作品はそういう暗さも特にありません。共感も同情もしない代わりに、批判も評価も一切なし。淡々と進んでいきます。その「淡々さ」にむしろリアリティを感じました。
・意味のない会話に意味があるところ
といっても別に伏線になっているとか、そういうわけじゃありません。たとえば、イーニドとレベッカの間で「やる」という表現がよく出てきます。「あいつと超やりたい」とか「やらなすぎてストレスたまってきた」とか「とりあえずやる」とか「すげーやりたい」とか。よく聞いてみると分かるのですが、二人の会話はこのように、ほぼ会話になっていません。そもそも趣味も全然合ってないし。それでも会話になってしまうのが十代のリアルなのかもしれませんが、私は、その裏に「親友面した軽薄な関係」というのも見え隠れしたような気がしました。実際、二人は高校を卒業したら疎遠になっていったわけですし(私も若い頃にこういう関係が多々ありました)。作品を作ろうとした場合、話を早く前に進ませたくて、「打てば響くような会話」を作りがちですが、本作のように「キャッチボールになっていないぶつ切りの会話」も、そこに意味があるなら、ありだなと思いました。
<印象的なシーン>
映画は「世の中の一切を小馬鹿にして、興味を持たないイーニドが、なぜか、来ないバスを待っているボケ老人に心を惹かれる」という設定なのですが、それはもちろん、「現実からの逃避」を意味します。空想レベルではなく、「物理的に逃げ出したい」ということなのだと思います。ラストシーンでは、絶望したイーニドの前に、来るはずのなかったバスがきます。そして、イーニドはバスに乗ってどこかへ去っていきます。「自立」なのか「自殺」なのか、結論は特にありません。すっきりしないけど、私は、こういう映画なら、結末は観る人に委ねる、というのもありかなと思いました。
2015年9月3日木曜日
映画目録「プロミス・ランド」
<あらすじ>
石油に代わる、次世代のエネルギーとして期待される「シェールガス」。その開発用地を仕入れるために、ペンシルヴァニアの田舎町にやってきた主人公。いつものように住人達を「足の下に金が埋まってる。それを掘り出して、人生を変えるんだ」と口説き落としていくが、ある時から「シェールガスは環境破壊を伴う」という反対運動に合い、交渉がうまく進まなくなる。住人達からはそっぽを向かれ、意中の女性からも距離を置かれ、次第に、仕事への信念や情熱が揺るがされていく主人公。名誉回復のために、地元みんなで盛り上がれるお祭りを企画するが…
<多分ここが面白いところ>
・善悪の境界線を設けてないところ
「農村部の貧困」「環境破壊」を描いたドラマはたくさんありますが、この映画は、開発会社のエリート社員を主人公にしている時点で、面白いと思いました。一般的に「開発会社=悪者」となりがちですが、この映画は、悪者が特に見当たりません。みんな、自分の生活や夢や希望があって、それなりに葛藤を抱えながら生きています。そのドラマが、きちんと描けていたのが好感を持てました。
・日々の営みに対する考え方のギャップ
この映画は、主人公と、それを取り巻く人々との間にある“ギャップ”が大きなテーマになっています。それは、色んなシチュエーションで細かく表現されていますが、具体的・明確に「これ」と表現されることはありません。私が思うに、それは『何気ない日々の営み』に対するとらえ方なんじゃないかと思います。よく、女の人で、付き合っている男の人に、悩みや不安を愚痴る人、いますよね。で、男が「じゃあこうしたら」って解決策を提示すると、「そんなこと聞いてるわけじゃない」みたいな。別に、解決してほしいわけじゃないんですよね。自分の人生を共有したいというか、何というか。主人公はいい奴なんだけど、こういった日々の小さな営みに、まったく理解がないんですね。むしろ「解決策を提示してるのに、何で怒るんだ?」と思っちゃう。私も似たようなところがあって若い頃はずいぶん苦しめられたので、主人公の気持ちになってみてしまいました。
<印象的なシーン>
主人公が一人、酒場で酒を飲んでいるとき、反対派の住人が絡んできます。「てめえも農家出身なんだろ? こんなことして恥ずかしくねえのか!?」みたいな感じで。そん時、主人公が言い返すんですよね。「あんたらが手に入れるのは、はした金じゃない。人生を変える、ぶっ飛ばし金なんだ。子供を大学に行かせられない? ぶっとばせよ。銀行に金が返せない? そんなのぶっとばせ」と。これを聞いた住人達は、怒ります。でも、主人公は、なぜ彼らが怒るのか理解できません。主人公と住人達の間にある、埋めがたい溝(人生に対する考え方の差)を、うまく表現していたと思います。
2015年7月1日水曜日
映画目録「「リリィ・シュシュのすべて」
<あらすじ>
夏休みを境に、いじめられっ子になってしまった中学生・蓮見。万引きを強要されたり、みんなの前で自慰行為を強制されたり、同級生の売春の手伝いをさせられたり、憧れの女生徒をレイプされてしまったり、いじめは徐々に苛烈さを増していく。唯一の心のよりどころは、伝説の歌姫「リリィ」の歌を聴くこと。リリィのファンサイトで、リリィの素晴らしさを語り合う事。ある時、蓮見はファンサイトで知り合った人と、ライブ会場で会う約束をして出かけて行く。そこで事件が起こる。
<多分ここが面白いところ>
・加害者と被害者、二人とも同じ歌を愛している
いじめられっ子の蓮見と、いじめっ子の星野は、夏休み前までは友達でした。家に泊まりにいったり、旅行に行くくほどの仲でした。そして、二人とも「リリィ」が好きでした。考えてみれば当たり前のことですが、どんな人間にも好きな歌ぐらいあります。殺人犯もテロリストも、歌ぐらい聞きます。加害者も被害者も、同じ歌を口ずさみながら、人を傷つけたり、傷つけられたりしているわけです。これは人間は立場は異なっても、善悪を越えて、同じ「孤独・絶望を抱えている」ということを端的に表していると思います。同時に「安全地帯などどこにもない」「いつやられるか分からない」「やらなければやられる」という過酷な状況におかれた中学生達の厳しい現実を上手く表現していると思います。
・ハンドルネームという匿名性が上手く使われている
全編を通じて、ネットへの書き込みが画面を支配しています。「フィリア」「青猫」などのハンドルネームが使われており、おそらく、劇中の中学生の誰かがあてはまるのだと思いますが、誰が誰なのかよく分かりません。もちろん、意図的な伏線で、これがラストシーン(ライブ会場)での蓮見の凶行につながっていくのですが、匿名性を上手く利用した作りになっています。
・みんな幼い、そして初々しい!
主人公の蓮見を演じるのは市原隼人さん(当時13歳)。敵役の星野を演じるのは忍成修吾さん。そして、ヒロインには、蒼井優さんと伊藤歩さん。。今見返してみると、豪華な顔ぶれですね。もちろん当時は無名で、全員、オーディションで合格したそうです。おそらく岩井監督の目論見なのでしょうが、「演じている」という感じはほとんどありません。ただ、そこにいる、そこにいて起こったことに反応している、という感じです。それがこの年代の少年少女らしく、新鮮に感じられました。
<印象的なシーン>
劇中には、津田詩織と久野陽子、二人のヒロインが登場します。その対比がとても明確に描かれており、印象に残りました。
津田詩織は、星野に弱みを握られ、中年男性を相手に売春を強要されています。男がみんな客に見えてきて、同級生から告白されても、素直に喜ぶこともできません。蓮見に「デブになったら売春なんてしなくて済むかな」と嘆くのですが、そこまでやる覚悟はありません。何となく、流されるように生きています。
一方、蓮見の憧れの同級生・久野陽子は、とても強い女性として描かれています。才色兼備故に同性から嫉妬され、いじめを受けていますが、物怖じすることもありません。同じく優等生でありながら脱落した星野にとって、その「眩しさ」は許せるものではありません。ある時、星野の指示により、レイプされてしまいます。しかし、久野は怯むことなく、その翌日、頭を丸坊主にして学校に登校してきます。この「丸坊主具合」がすごいのです。自分でバリカンで剃ったのが明らかなのです(カツラではなく、本当に剃ったそうです)。
夏休みを境に、いじめられっ子になってしまった中学生・蓮見。万引きを強要されたり、みんなの前で自慰行為を強制されたり、同級生の売春の手伝いをさせられたり、憧れの女生徒をレイプされてしまったり、いじめは徐々に苛烈さを増していく。唯一の心のよりどころは、伝説の歌姫「リリィ」の歌を聴くこと。リリィのファンサイトで、リリィの素晴らしさを語り合う事。ある時、蓮見はファンサイトで知り合った人と、ライブ会場で会う約束をして出かけて行く。そこで事件が起こる。
<多分ここが面白いところ>
・加害者と被害者、二人とも同じ歌を愛している
いじめられっ子の蓮見と、いじめっ子の星野は、夏休み前までは友達でした。家に泊まりにいったり、旅行に行くくほどの仲でした。そして、二人とも「リリィ」が好きでした。考えてみれば当たり前のことですが、どんな人間にも好きな歌ぐらいあります。殺人犯もテロリストも、歌ぐらい聞きます。加害者も被害者も、同じ歌を口ずさみながら、人を傷つけたり、傷つけられたりしているわけです。これは人間は立場は異なっても、善悪を越えて、同じ「孤独・絶望を抱えている」ということを端的に表していると思います。同時に「安全地帯などどこにもない」「いつやられるか分からない」「やらなければやられる」という過酷な状況におかれた中学生達の厳しい現実を上手く表現していると思います。
・ハンドルネームという匿名性が上手く使われている
全編を通じて、ネットへの書き込みが画面を支配しています。「フィリア」「青猫」などのハンドルネームが使われており、おそらく、劇中の中学生の誰かがあてはまるのだと思いますが、誰が誰なのかよく分かりません。もちろん、意図的な伏線で、これがラストシーン(ライブ会場)での蓮見の凶行につながっていくのですが、匿名性を上手く利用した作りになっています。
・みんな幼い、そして初々しい!
主人公の蓮見を演じるのは市原隼人さん(当時13歳)。敵役の星野を演じるのは忍成修吾さん。そして、ヒロインには、蒼井優さんと伊藤歩さん。。今見返してみると、豪華な顔ぶれですね。もちろん当時は無名で、全員、オーディションで合格したそうです。おそらく岩井監督の目論見なのでしょうが、「演じている」という感じはほとんどありません。ただ、そこにいる、そこにいて起こったことに反応している、という感じです。それがこの年代の少年少女らしく、新鮮に感じられました。
<印象的なシーン>
劇中には、津田詩織と久野陽子、二人のヒロインが登場します。その対比がとても明確に描かれており、印象に残りました。
津田詩織は、星野に弱みを握られ、中年男性を相手に売春を強要されています。男がみんな客に見えてきて、同級生から告白されても、素直に喜ぶこともできません。蓮見に「デブになったら売春なんてしなくて済むかな」と嘆くのですが、そこまでやる覚悟はありません。何となく、流されるように生きています。
一方、蓮見の憧れの同級生・久野陽子は、とても強い女性として描かれています。才色兼備故に同性から嫉妬され、いじめを受けていますが、物怖じすることもありません。同じく優等生でありながら脱落した星野にとって、その「眩しさ」は許せるものではありません。ある時、星野の指示により、レイプされてしまいます。しかし、久野は怯むことなく、その翌日、頭を丸坊主にして学校に登校してきます。この「丸坊主具合」がすごいのです。自分でバリカンで剃ったのが明らかなのです(カツラではなく、本当に剃ったそうです)。
2015年6月26日金曜日
映画目録「横道世之介」
<あらすじ>
大学進学のために、長崎から上京してきた一人の若者(横道世之介)。勧誘を断りきれずにサンバサークルに入ってしまう「極度のお人好し」と思えば、クーラー目当てで親しくもない友人の部屋に入り浸る「図々しさ」を持ち合わせた、どこか憎めない性格。世之介を中心に、夢や希望など大それたものはないけれど、人生を必死で生きようとする若者達の姿を描いた青春ストーリー。1987年当時と、20年後の世界を生きる、かつての友人・知人達が世之介を思い返しながら、ストーリーは進行していく。
※監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一さん。脚本は前田司郎さんと共同執筆
※原作は吉田修一さんの小説「横道世之介」
<多分ここが面白いところ>
・afterではなく、beforであるところ
映画は、過去と未来をいったりきたりします。それは世之介の死を境にしたbeforとafterの世界であると同時に「人生を選び取った瞬間」から見てbeforとafterという作りになっています。beforの世界では、登場人物達は悪戦苦闘しながらも、それぞれが世之介との出会いを通じて、自分の人生を選び取るまでが描かれています。たとえば、子供ができた倉持は、大学をやめて、パパになることを選びます。ゲイであることをカミングアウトした加藤は、その道を受け入れます。千春は娼婦をやめて、まっとうに生きることを選びます。親の庇護に甘えていた祥子は、海外青年協力隊の道を選びます。具体的に何をどうやって選び取ったのかは描かれていませんが、afterで、選び取った人生を必死で生きている姿が描かれています。世の中には「夢をもち、それを叶えるまでの物語(after)」はたくさんありますが、このように「夢を(人生を選ぶ)持つまでの物語(befor)」はとても珍しく、その作り方もとても面白いと思います。「選ぶ」ということの尊さや大切さが、ひしひしと伝わってきました。
・きっかけを作っているのが「世之介」だということ
登場人物達が、人生を選び取る瞬間には、世之介が介在しています。たとえば、子供ができた責任感から大学を辞め、社会人になるという決断を下した倉持の場合。不安に押しつぶされそうな倉持を、世之介は「俺にできることがあったら何でもいってくれ」と励まします。「じゃあ、金」「いいよ」「……嘘だよ(笑)」「いいって、別に俺、金使わねえし」という感じです。たとえば、加藤の場合。自分がゲイであることをカミングアウトするのですが(おそらく人生初)、世之介はスイカを食べながら、あっけらかんとして「だから何だよ」と答えます。これらは、彼らのその後の人生を左右する瞬間なのですが、だからといって、力強く勇気づける見せ場的なシーンではなく、本当に何気ない会話として描かれています。そこが、素晴らしいと思いました。現実社会でも人生を変える瞬間って、概ね、こういうものだと思います。
<印象的なシーン>
世之介が夜中のコインランドリーで、一人サンバを踊るところです。グルグル回る洗濯物は、おそらく、翻弄される人生・無力な自分を暗諭していると思います。その中で「行動すること・選び取ること」の大切を本能的に察した青年が、突然サンバを踊り出す。アクションとして、ふさわしい行為だと思いました。青春とは甘く・ほろ苦いと言いますが、いつの時代も、その瞬間を生きる若者にとっては、辛く、過酷なものです。世之介が夜中のコインランドリーで我を忘れてサンバを踊る姿に、私もあの時代を思い出して、泣きそうになりました。
大学進学のために、長崎から上京してきた一人の若者(横道世之介)。勧誘を断りきれずにサンバサークルに入ってしまう「極度のお人好し」と思えば、クーラー目当てで親しくもない友人の部屋に入り浸る「図々しさ」を持ち合わせた、どこか憎めない性格。世之介を中心に、夢や希望など大それたものはないけれど、人生を必死で生きようとする若者達の姿を描いた青春ストーリー。1987年当時と、20年後の世界を生きる、かつての友人・知人達が世之介を思い返しながら、ストーリーは進行していく。
※監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一さん。脚本は前田司郎さんと共同執筆
※原作は吉田修一さんの小説「横道世之介」
<多分ここが面白いところ>
・afterではなく、beforであるところ
映画は、過去と未来をいったりきたりします。それは世之介の死を境にしたbeforとafterの世界であると同時に「人生を選び取った瞬間」から見てbeforとafterという作りになっています。beforの世界では、登場人物達は悪戦苦闘しながらも、それぞれが世之介との出会いを通じて、自分の人生を選び取るまでが描かれています。たとえば、子供ができた倉持は、大学をやめて、パパになることを選びます。ゲイであることをカミングアウトした加藤は、その道を受け入れます。千春は娼婦をやめて、まっとうに生きることを選びます。親の庇護に甘えていた祥子は、海外青年協力隊の道を選びます。具体的に何をどうやって選び取ったのかは描かれていませんが、afterで、選び取った人生を必死で生きている姿が描かれています。世の中には「夢をもち、それを叶えるまでの物語(after)」はたくさんありますが、このように「夢を(人生を選ぶ)持つまでの物語(befor)」はとても珍しく、その作り方もとても面白いと思います。「選ぶ」ということの尊さや大切さが、ひしひしと伝わってきました。
・きっかけを作っているのが「世之介」だということ
登場人物達が、人生を選び取る瞬間には、世之介が介在しています。たとえば、子供ができた責任感から大学を辞め、社会人になるという決断を下した倉持の場合。不安に押しつぶされそうな倉持を、世之介は「俺にできることがあったら何でもいってくれ」と励まします。「じゃあ、金」「いいよ」「……嘘だよ(笑)」「いいって、別に俺、金使わねえし」という感じです。たとえば、加藤の場合。自分がゲイであることをカミングアウトするのですが(おそらく人生初)、世之介はスイカを食べながら、あっけらかんとして「だから何だよ」と答えます。これらは、彼らのその後の人生を左右する瞬間なのですが、だからといって、力強く勇気づける見せ場的なシーンではなく、本当に何気ない会話として描かれています。そこが、素晴らしいと思いました。現実社会でも人生を変える瞬間って、概ね、こういうものだと思います。
<印象的なシーン>
世之介が夜中のコインランドリーで、一人サンバを踊るところです。グルグル回る洗濯物は、おそらく、翻弄される人生・無力な自分を暗諭していると思います。その中で「行動すること・選び取ること」の大切を本能的に察した青年が、突然サンバを踊り出す。アクションとして、ふさわしい行為だと思いました。青春とは甘く・ほろ苦いと言いますが、いつの時代も、その瞬間を生きる若者にとっては、辛く、過酷なものです。世之介が夜中のコインランドリーで我を忘れてサンバを踊る姿に、私もあの時代を思い出して、泣きそうになりました。
2015年6月10日水曜日
映画目録「複製された男」
<あらすじ>
大学で講師を務めるアダム。大学と家を往復して、たまに恋人とセックスするだけの単調な日常に嫌気がさしている。そんなある日、偶然目にした映画の中に、自分と瓜二つの男アンソニーを見つける。興味を持ったアダムは、アンソニーの周囲を調べ、居所を突き止める。実は2人は顔、声、生年月日、更には体にできた傷痕まで一致していた。初めは面白半分だったアダムだが、徐々に恐怖を覚え始める。やがて、アダムの恋人やアンソニーの妻をも巻き込み、とんでもない事態に。
※監督は「プリズナーズ」「灼熱の魂」などを手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ
<多分ここが面白いところ>
・公式サイトのキャッチコピー
「脳力が試される、究極の心理ミステリー あなたは一度で見抜けるか―」
・私は、こういうことを全く意識せず観たせいもあり、
何も分からないまま終わってしまいました。
後で、映画通の友人から「実はこういうことなんだよ」と説明を受けて
「なるほどーそういえば…」と思った口です。あしからず。
・ネタを明かせば、アダムとアンソニーは人格が違うだけで、同じ人間です。
古い言い方をすれば「二重人格」というところでしょうか。
アダム=浮気している自分 アンソニー=妻と子供を愛している自分
アダム=平凡な大学講師 アンソニー=華やかな俳優業
・「浮気している時は、妻が恋しくなり、
妻と一緒にいる時は、愛人が恋しくなる」
「会社にいれば、家に帰りたくなり、家にいたら、会社に行きたくなる」
みなさんも日常生活でも、身勝手すぎる矛盾って感じたことありませんか?
それと同じように、この男は
アダムでいるときは、アンソニーになりたいと思い、
アンソニーでいるときは、アダムになりたいと思う。
それが高じた結果、分裂した人格になってしまったわけですね。
・この映画は、これを違う人間としてその日常を
「切り取り」「つなぎ合わせた」ことが新しいのだと思います。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、こういった仕掛けが好きだし、本当に上手いですね。
<印象的なシーン>
アダムがアンソニーに電話をかけてきて、
それを「誰から?」と奥さんが怪しむシーンがあります。
「あなた浮気してるんじゃないの」って。
初めて観ている時は、何とも思わなかったし、
正直、「奥さんうざい」ぐらい思っていたのですが、
真相を知って、思い返してみると、
何とも奥さんが可哀想で可哀想で…。
実際、浮気相手からの電話で、本当に浮気をしていたんですよね。
それを必死こいて言い繕っていたんですよ、あれは。
うーん。物事の見方って、ちょっとしたことでこんなに変わるんですね。
大学で講師を務めるアダム。大学と家を往復して、たまに恋人とセックスするだけの単調な日常に嫌気がさしている。そんなある日、偶然目にした映画の中に、自分と瓜二つの男アンソニーを見つける。興味を持ったアダムは、アンソニーの周囲を調べ、居所を突き止める。実は2人は顔、声、生年月日、更には体にできた傷痕まで一致していた。初めは面白半分だったアダムだが、徐々に恐怖を覚え始める。やがて、アダムの恋人やアンソニーの妻をも巻き込み、とんでもない事態に。
※監督は「プリズナーズ」「灼熱の魂」などを手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ
<多分ここが面白いところ>
・公式サイトのキャッチコピー
「脳力が試される、究極の心理ミステリー あなたは一度で見抜けるか―」
・私は、こういうことを全く意識せず観たせいもあり、
何も分からないまま終わってしまいました。
後で、映画通の友人から「実はこういうことなんだよ」と説明を受けて
「なるほどーそういえば…」と思った口です。あしからず。
・ネタを明かせば、アダムとアンソニーは人格が違うだけで、同じ人間です。
古い言い方をすれば「二重人格」というところでしょうか。
アダム=浮気している自分 アンソニー=妻と子供を愛している自分
アダム=平凡な大学講師 アンソニー=華やかな俳優業
・「浮気している時は、妻が恋しくなり、
妻と一緒にいる時は、愛人が恋しくなる」
「会社にいれば、家に帰りたくなり、家にいたら、会社に行きたくなる」
みなさんも日常生活でも、身勝手すぎる矛盾って感じたことありませんか?
それと同じように、この男は
アダムでいるときは、アンソニーになりたいと思い、
アンソニーでいるときは、アダムになりたいと思う。
それが高じた結果、分裂した人格になってしまったわけですね。
・この映画は、これを違う人間としてその日常を
「切り取り」「つなぎ合わせた」ことが新しいのだと思います。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、こういった仕掛けが好きだし、本当に上手いですね。
<印象的なシーン>
アダムがアンソニーに電話をかけてきて、
それを「誰から?」と奥さんが怪しむシーンがあります。
「あなた浮気してるんじゃないの」って。
初めて観ている時は、何とも思わなかったし、
正直、「奥さんうざい」ぐらい思っていたのですが、
真相を知って、思い返してみると、
何とも奥さんが可哀想で可哀想で…。
実際、浮気相手からの電話で、本当に浮気をしていたんですよね。
それを必死こいて言い繕っていたんですよ、あれは。
うーん。物事の見方って、ちょっとしたことでこんなに変わるんですね。
2015年5月22日金曜日
NHKドラマ「64」の放送終了に寄せて(原作との相違点とその理由)
NHKドラマの「64」(全5話)が先日終了しました。
面白かったので、原作(横山秀夫さん著)も読んでみました。
◆原作との違い
基本的には「原作をできるだけ活かす形」になっています。
登場人物も構成も台詞も、ほぼ忠実に再現されていました。
大きく異なっていると思われた箇所は以下の通りです。
◇歴代の刑事部長は登場させない
原作では、尾坂部、大館など、既に引退した歴代の刑事部長達が登場します。
三上は「幸田メモ」「長官視察の目的」を追い求めて、彼らの自宅を訪問し、
そのやりとりを通じて「自分のやるべきこと」を見つめ直していきます。
しかし、ドラマでは、この辺りの描写が一切ありません。
その代わりに「刑事は世の中で一番楽な仕事」などの名言を吐き、
三上をリードする尾坂部の役割は、捜査一課長の松岡に負わせています。
※死の床から電話をかけ、三上の迷いを断ち切る大館の役割もおそらく分散させているかと。
<考えられる理由>
・登場人物がただでさえ多く、これ以上増やすと混乱するため
※刑事部長は現職の荒木田だけで十分。
・刑事部全員が敵に回る中、三上の唯一の理解者は捜査一課長の松岡だけ
というように登場人物が担う「役割」を徹底させるため
◇刑事部の報復は最小限にとどめる
原作では「刑事部長の召し上げ」という警務部・本庁のやり方に対し、
・留置管理係が女性留置人にわいせつ行為を働いていたこと
・留置管理係が居眠りをしていた隙に留置人が自殺してしまったことなど
刑事部は「警務部のミスをマスコミにリークする」というやり方で報復を試みています。
これに対し、ドラマではこの部分はすべてカットされています。
刑事部の報復行為は「誘拐事件の情報を出し惜しみする」というやり方に集約されています。
<考えられる理由>
・「留置管理」は一般の視聴者にはなじみが薄いため
・刑事部の抵抗を複数のやり方で分散させると、かえって意図が伝わりにくいため
◇登場人物の過去をあえて伝えない
原作では、三上が広報官になった経緯、
更に三上と二渡の不仲の理由、美那子とのなれ初めなど、
「バックグラウンド」がかなり丁寧に描かれていますが、
ドラマではすべてカットされています。
<考えられる理由>
・尺が足りないため。
・時間軸をこれ以上混乱させないため。
ドラマは、平成14年と誘拐事件のあった昭和64年をいったりきたりしています。
これ以上、過去のエピソードを盛り込むと、今が一体いつの話なのか、
視聴者が混乱する恐れがあったため、やむなく削ったのだと思われます。
※唯一、バックグラウンドとして残したのは、「あゆみが家を出て行った経緯」のみ。
◇記者会見の場を特に強調している
D県警は誘拐事件(平成14年の方)発生後、報道協定のもと記者会見を開催します。
記者会見を仕切る三上達、広報部のメンバーは
記者達に誘拐事件の報道を差し控えさせる代わりに、
刑事部の捜査状況を事細かく教えなければならないのですが、
刑事部は以下のような嫌がらせに出ます。
・記者会見をキャリアの浅い捜査二課長にやらせる
(本来刑事部長か捜査一課長がやるべきもの)
・情報を出し惜しみする(できるだけ小出しにする)
もちろん、記者達は納得がいきません。
「お前じゃ話にならん」と上層部を呼び出すように促し、
それができないと分かると、お飾りの捜査二課長に対して
「もっと詳しく」「今すぐ聞いてきて」などと煽って
その都度、会議場と捜査室を行ったり来たりさせるという「いじめ」に出ます。
徐々に疲弊していく捜査二課長と広報部の面々達。
苛立ちを増していく記者達。
やがて、暴動が起こり、その結果、
三上はやむなく「一課長を連れてくる」と約束させられることとなります。
この件は原作では293頁~316頁、わずか23頁という分量にすぎませんが、
ドラマでは第4話の大半(約40分)を費やす徹底ぶりです。
<考えられる理由>
・広報の存在意義を分かりやすく伝えるため
警察組織内における広報部の存在意義は「記者対策」に集約されますが、
小説では文章を手厚くしてその実態を伝えることが可能ですが、
映像メインのドラマではそうはいきません。説明臭くなってしまいます。
「映像としてどうやって伝えるか・魅せるか」
おそらく、ドラマの制作者の方々はその部分を悩み抜き、
その上で「この記者会見こそ見せ場だ」と思ったのだと思います。
この後、記者会見を抜け出した三上は
記者会見で頑張る広報部のメンバーのために、
また「うちのD県警が舐められるのは悔しい」と言ってくれる記者クラブの面々のために
「松岡に名前をリークするよう詰め寄る」「捜査式車に乗り込んで広報実況する」
という組織の構成員として考えられないような行動に出ます。
こういった考えられないような行動をとらせるためにも、
「大勢の記者達を前に、なすすべなく打ちのめされる」
というこの記者会見シーンを厚くする必要があったのだと思います。
◆追記
・制作したのは、以前、同局・同原作者の「クライマーズ・ハイ」を制作したのと同じチーム。
・音楽を手掛けたのは、あまちゃんの音楽も手掛けた大友良英さん。
※冒頭の「ぎゅいーん」という効果音が素晴らしかったです
・脚本は「クライマーズ・ハイ」も手掛けている大森寿美男さん。
・「64」はドラマ化に続き、2016年には2部作として映画化予定
http://www.cinra.net/news/20150326-rokuyon
キャストがすごいです。佐藤浩市、綾野剛、榮倉奈々、瑛太、三浦友和、永瀬正敏、吉岡秀隆、仲村トオル、椎名桔平、滝藤賢一、奥田瑛二、夏川結衣、緒形直人、窪田正孝(敬称略)
※秋山役を兄弟で演じ分け!(ドラマは永山絢斗さん、映画は瑛太さん)
面白かったので、原作(横山秀夫さん著)も読んでみました。
◆原作との違い
基本的には「原作をできるだけ活かす形」になっています。
登場人物も構成も台詞も、ほぼ忠実に再現されていました。
大きく異なっていると思われた箇所は以下の通りです。
◇歴代の刑事部長は登場させない
原作では、尾坂部、大館など、既に引退した歴代の刑事部長達が登場します。
三上は「幸田メモ」「長官視察の目的」を追い求めて、彼らの自宅を訪問し、
そのやりとりを通じて「自分のやるべきこと」を見つめ直していきます。
しかし、ドラマでは、この辺りの描写が一切ありません。
その代わりに「刑事は世の中で一番楽な仕事」などの名言を吐き、
三上をリードする尾坂部の役割は、捜査一課長の松岡に負わせています。
※死の床から電話をかけ、三上の迷いを断ち切る大館の役割もおそらく分散させているかと。
<考えられる理由>
・登場人物がただでさえ多く、これ以上増やすと混乱するため
※刑事部長は現職の荒木田だけで十分。
・刑事部全員が敵に回る中、三上の唯一の理解者は捜査一課長の松岡だけ
というように登場人物が担う「役割」を徹底させるため
◇刑事部の報復は最小限にとどめる
原作では「刑事部長の召し上げ」という警務部・本庁のやり方に対し、
・留置管理係が女性留置人にわいせつ行為を働いていたこと
・留置管理係が居眠りをしていた隙に留置人が自殺してしまったことなど
刑事部は「警務部のミスをマスコミにリークする」というやり方で報復を試みています。
これに対し、ドラマではこの部分はすべてカットされています。
刑事部の報復行為は「誘拐事件の情報を出し惜しみする」というやり方に集約されています。
<考えられる理由>
・「留置管理」は一般の視聴者にはなじみが薄いため
・刑事部の抵抗を複数のやり方で分散させると、かえって意図が伝わりにくいため
◇登場人物の過去をあえて伝えない
原作では、三上が広報官になった経緯、
更に三上と二渡の不仲の理由、美那子とのなれ初めなど、
「バックグラウンド」がかなり丁寧に描かれていますが、
ドラマではすべてカットされています。
<考えられる理由>
・尺が足りないため。
・時間軸をこれ以上混乱させないため。
ドラマは、平成14年と誘拐事件のあった昭和64年をいったりきたりしています。
これ以上、過去のエピソードを盛り込むと、今が一体いつの話なのか、
視聴者が混乱する恐れがあったため、やむなく削ったのだと思われます。
※唯一、バックグラウンドとして残したのは、「あゆみが家を出て行った経緯」のみ。
◇記者会見の場を特に強調している
D県警は誘拐事件(平成14年の方)発生後、報道協定のもと記者会見を開催します。
記者会見を仕切る三上達、広報部のメンバーは
記者達に誘拐事件の報道を差し控えさせる代わりに、
刑事部の捜査状況を事細かく教えなければならないのですが、
刑事部は以下のような嫌がらせに出ます。
・記者会見をキャリアの浅い捜査二課長にやらせる
(本来刑事部長か捜査一課長がやるべきもの)
・情報を出し惜しみする(できるだけ小出しにする)
もちろん、記者達は納得がいきません。
「お前じゃ話にならん」と上層部を呼び出すように促し、
それができないと分かると、お飾りの捜査二課長に対して
「もっと詳しく」「今すぐ聞いてきて」などと煽って
その都度、会議場と捜査室を行ったり来たりさせるという「いじめ」に出ます。
徐々に疲弊していく捜査二課長と広報部の面々達。
苛立ちを増していく記者達。
やがて、暴動が起こり、その結果、
三上はやむなく「一課長を連れてくる」と約束させられることとなります。
この件は原作では293頁~316頁、わずか23頁という分量にすぎませんが、
ドラマでは第4話の大半(約40分)を費やす徹底ぶりです。
<考えられる理由>
・広報の存在意義を分かりやすく伝えるため
警察組織内における広報部の存在意義は「記者対策」に集約されますが、
小説では文章を手厚くしてその実態を伝えることが可能ですが、
映像メインのドラマではそうはいきません。説明臭くなってしまいます。
「映像としてどうやって伝えるか・魅せるか」
おそらく、ドラマの制作者の方々はその部分を悩み抜き、
その上で「この記者会見こそ見せ場だ」と思ったのだと思います。
この後、記者会見を抜け出した三上は
記者会見で頑張る広報部のメンバーのために、
また「うちのD県警が舐められるのは悔しい」と言ってくれる記者クラブの面々のために
「松岡に名前をリークするよう詰め寄る」「捜査式車に乗り込んで広報実況する」
という組織の構成員として考えられないような行動に出ます。
こういった考えられないような行動をとらせるためにも、
「大勢の記者達を前に、なすすべなく打ちのめされる」
というこの記者会見シーンを厚くする必要があったのだと思います。
◆追記
・制作したのは、以前、同局・同原作者の「クライマーズ・ハイ」を制作したのと同じチーム。
・音楽を手掛けたのは、あまちゃんの音楽も手掛けた大友良英さん。
※冒頭の「ぎゅいーん」という効果音が素晴らしかったです
・脚本は「クライマーズ・ハイ」も手掛けている大森寿美男さん。
・「64」はドラマ化に続き、2016年には2部作として映画化予定
http://www.cinra.net/news/20150326-rokuyon
キャストがすごいです。佐藤浩市、綾野剛、榮倉奈々、瑛太、三浦友和、永瀬正敏、吉岡秀隆、仲村トオル、椎名桔平、滝藤賢一、奥田瑛二、夏川結衣、緒形直人、窪田正孝(敬称略)
※秋山役を兄弟で演じ分け!(ドラマは永山絢斗さん、映画は瑛太さん)
2015年5月8日金曜日
NHK土曜ドラマ「64」が面白い
現在放映中のNHK(10:00~)の
ドラマ「64(ロクヨン)」が面白いです。
http://www.nhk.or.jp/dodra/rokuyon/
※5/16(土)が最終話放送
<ざっと紹介>
主人公は、県警広報室の室長・三上(ピエール瀧)
何か事件が起こった際に、
「被害者や犯人の個人情報をどの程度明らかにするか」
マスコミ向けの警察発表を取り仕切る仕事です。
ドラマは昭和64年に管轄内で発生した、
少女誘拐殺害事件が近々、時効を迎えるに当たり、
突然、警察庁長官が遺族を慰問しに来る、
というところからスタートします。
少女誘拐殺害事件の元担当刑事ということから、
その遺族対応・マスコミ対策を任された三上ですが、
遺族からは慰問拒否、記者からは取材ボイコットを言い渡されます。
理由が分からないまま、事態を打破しようと
当時の関係者のもとを駆けずり回る三上ですが
関係者はみな事件に関して口を閉ざすばかり。
やがて、三上は少女誘拐殺害事件に隠された
巨大な警察内部の不正に気付いてしまいます。
長官慰問の日程が迫るなかで、
刑事仲間からは「刑事に戻りたければ、黙っていろ」と脅され
記者連中からは「警察なんか信用できない」と叩かれ
部下からは「自分の正義だけ貫けばそれで満足なんですか」と突き上げられる中、
三上は果たして、どんな決断を下すのか。
<ここが面白い>
「県警広報室」という舞台は
刑事モノとしては、かなり目新しいと思います。
多少、取っつきにくい感じもしますが
・上層部から不正・隠蔽の片棒を担ぐよう命じられる
・記者や部下からは正義を盾に突き上げを食らう
理想と現実のはざまで板挟みになって苦悩する姿は
まさに「THE中間管理職」。
その悲哀は、一般企業となんら変わりありません。
おまけに三上は現在、高校生になる娘が失踪中で安否不明。
醜形恐怖症に陥った娘の「整形したい」という思いを理解できず、
無理に引っ張り出し、顔を叩いてしまった…
「自分のせいだ」と強く自分を責めています。
中間管理職として、元刑事として、父親として
主人公の三重苦が、ドラマをたまらなく面白くさせています。
<印象的なシーン>
三上の部下である広報室の女性職員が、
決裂した記者との関係を修復しようと
記者を接待する(飲みに出かける)のですが
それを知った三上に「お前が汚れ仕事をすることはない」と
一喝されるシーンがあります。
これに対して、女性職員が言った台詞がものすごくいいです。
「汚れ仕事は自分だけでやって、
キレイなところは全部私に押し付けて、
それで自分にはまだ汚れていない部分があるなんて、
……そんなのずるいです」
この台詞は、女性職員に自らの娘を重ね合わせ、
いつまでも子離れできていなかった三上の心を
ズギューンと打ち抜きます。
どちらが間違っているという、
単純な善悪の問題ではなく、
三上には三上の正義があって、
女性職員には女性職員の正義がある。
世の中には、一人ひとりに立場があるわけです。
娘(女性職員)を守りたい一心で
結局は、自分の正義しか考えていなかった。
そのことに気づいた三上は、
この夜を境に変わります。
部下を信じる、記者を信じる、そして娘を信じるようになります。
ドラマの重要なターニングポイントを
台詞一つでしっかり描いた、本当に素晴らしいシーンだったと思います。
ドラマ「64(ロクヨン)」が面白いです。
http://www.nhk.or.jp/dodra/rokuyon/
※5/16(土)が最終話放送
<ざっと紹介>
主人公は、県警広報室の室長・三上(ピエール瀧)
何か事件が起こった際に、
「被害者や犯人の個人情報をどの程度明らかにするか」
マスコミ向けの警察発表を取り仕切る仕事です。
ドラマは昭和64年に管轄内で発生した、
少女誘拐殺害事件が近々、時効を迎えるに当たり、
突然、警察庁長官が遺族を慰問しに来る、
というところからスタートします。
少女誘拐殺害事件の元担当刑事ということから、
その遺族対応・マスコミ対策を任された三上ですが、
遺族からは慰問拒否、記者からは取材ボイコットを言い渡されます。
理由が分からないまま、事態を打破しようと
当時の関係者のもとを駆けずり回る三上ですが
関係者はみな事件に関して口を閉ざすばかり。
やがて、三上は少女誘拐殺害事件に隠された
巨大な警察内部の不正に気付いてしまいます。
長官慰問の日程が迫るなかで、
刑事仲間からは「刑事に戻りたければ、黙っていろ」と脅され
記者連中からは「警察なんか信用できない」と叩かれ
部下からは「自分の正義だけ貫けばそれで満足なんですか」と突き上げられる中、
三上は果たして、どんな決断を下すのか。
<ここが面白い>
「県警広報室」という舞台は
刑事モノとしては、かなり目新しいと思います。
多少、取っつきにくい感じもしますが
・上層部から不正・隠蔽の片棒を担ぐよう命じられる
・記者や部下からは正義を盾に突き上げを食らう
理想と現実のはざまで板挟みになって苦悩する姿は
まさに「THE中間管理職」。
その悲哀は、一般企業となんら変わりありません。
おまけに三上は現在、高校生になる娘が失踪中で安否不明。
醜形恐怖症に陥った娘の「整形したい」という思いを理解できず、
無理に引っ張り出し、顔を叩いてしまった…
「自分のせいだ」と強く自分を責めています。
中間管理職として、元刑事として、父親として
主人公の三重苦が、ドラマをたまらなく面白くさせています。
<印象的なシーン>
三上の部下である広報室の女性職員が、
決裂した記者との関係を修復しようと
記者を接待する(飲みに出かける)のですが
それを知った三上に「お前が汚れ仕事をすることはない」と
一喝されるシーンがあります。
これに対して、女性職員が言った台詞がものすごくいいです。
「汚れ仕事は自分だけでやって、
キレイなところは全部私に押し付けて、
それで自分にはまだ汚れていない部分があるなんて、
……そんなのずるいです」
この台詞は、女性職員に自らの娘を重ね合わせ、
いつまでも子離れできていなかった三上の心を
ズギューンと打ち抜きます。
どちらが間違っているという、
単純な善悪の問題ではなく、
三上には三上の正義があって、
女性職員には女性職員の正義がある。
世の中には、一人ひとりに立場があるわけです。
娘(女性職員)を守りたい一心で
結局は、自分の正義しか考えていなかった。
そのことに気づいた三上は、
この夜を境に変わります。
部下を信じる、記者を信じる、そして娘を信じるようになります。
ドラマの重要なターニングポイントを
台詞一つでしっかり描いた、本当に素晴らしいシーンだったと思います。
2015年4月23日木曜日
映画目録「ええじゃないか」
<あらすじ>
江戸両国にある見世物小屋に集まった訳ありの男達。勤王だ倒幕だ、徳川だ薩長だ、騒がしい世相に乗じ、盗み・たかりを繰り返す。しかし次第に、時代の流れに翻弄され、狂わされ、一人、また一人と身持ちを崩していく。鎖国から開国へ、江戸から明治へ。時代の変わり目にあって、日々強く生きぬく庶民達の姿を、たくましく描いている。
<多分ここが面白いところ>
・江戸末期と言えば、時代劇の花形。そのほとんどは「日本をどぎゃんかせんといかん」みたいな大所高所から語られることが多いのですが、そういうのとは明らかに異なる作品です。時代の流れとは全く無縁だけど、その日その日を一生懸命生きた人間達がいた。「実は名もなき庶民こそが、新しい日本を切り開いていったんじゃないか」という視点は、素晴らしいと思いました。
・1979年撮影というだけあって、泉谷しげる、桃井かおり、緒方拳、露口茂、草刈正雄、倍賞美津子、日野正平、田中裕子、みんな若いです。今ではみなさん大御所ですが、こんな初々しい頃があったんだなって、桃井かおりってほんと可愛いんだなって、なんか感動的でした。
<印象的なシーン>
江戸庶民達が怒りを爆発させ、江戸市中を踊り歩き、しまいにはお堀(皇居)に迫るラストシーンです。ここは「権力vs反権力」「秩序vs混沌」「管理vs自由など」劇中にうずまいていた様々な価値観の対立が浮き彫りになる、最大の見せ場です。総勢2000名ものエキストラが「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂うのは、ド迫力の映像です。難しいことを考えなくても、これだけでも十分に観る価値があると思います。もう一度、映画館で見て見たい!
江戸両国にある見世物小屋に集まった訳ありの男達。勤王だ倒幕だ、徳川だ薩長だ、騒がしい世相に乗じ、盗み・たかりを繰り返す。しかし次第に、時代の流れに翻弄され、狂わされ、一人、また一人と身持ちを崩していく。鎖国から開国へ、江戸から明治へ。時代の変わり目にあって、日々強く生きぬく庶民達の姿を、たくましく描いている。
<多分ここが面白いところ>
・江戸末期と言えば、時代劇の花形。そのほとんどは「日本をどぎゃんかせんといかん」みたいな大所高所から語られることが多いのですが、そういうのとは明らかに異なる作品です。時代の流れとは全く無縁だけど、その日その日を一生懸命生きた人間達がいた。「実は名もなき庶民こそが、新しい日本を切り開いていったんじゃないか」という視点は、素晴らしいと思いました。
・1979年撮影というだけあって、泉谷しげる、桃井かおり、緒方拳、露口茂、草刈正雄、倍賞美津子、日野正平、田中裕子、みんな若いです。今ではみなさん大御所ですが、こんな初々しい頃があったんだなって、桃井かおりってほんと可愛いんだなって、なんか感動的でした。
<印象的なシーン>
江戸庶民達が怒りを爆発させ、江戸市中を踊り歩き、しまいにはお堀(皇居)に迫るラストシーンです。ここは「権力vs反権力」「秩序vs混沌」「管理vs自由など」劇中にうずまいていた様々な価値観の対立が浮き彫りになる、最大の見せ場です。総勢2000名ものエキストラが「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂うのは、ド迫力の映像です。難しいことを考えなくても、これだけでも十分に観る価値があると思います。もう一度、映画館で見て見たい!
2015年4月21日火曜日
映画目録「息もできない」
<あらすじ>
暴力的な借金取りと、男勝りで勝気な女子高生。実は、借金取りは幼い頃の父親のDVがトラウマとなり今も悩まされおり、女子高生は呆けた父親の介護とぐれた弟の世話に追われ、二人とも自分の人生を投げ出しかかっていた。ひょんなことから知り合った二人は、互いを罵倒しあいながらも、徐々に距離を縮めていく。ちなみにキャッチコピーは「二人でいる時だけ、泣けた」だけど、恋愛映画ではありません。
<多分ここが面白いところ>
・「息もつかせない」ような暴力シーンの連続
喧嘩とか大立ち回りとかそういうのではありません。男が女を殴り、父が息子を殴り、借金取りが債務者を殴る。強い立場の者が、弱い立場の者を痛めつける、見ていて嫌になるような、生々しく、痛々しい暴力です。しかも、その暴力は、親から子供へ、兄貴分から弟分へ、どんどん連鎖していきます。多くの場合、劣悪な環境に生まれ育った故のことで、彼ら自身にほとんど非はありません。見続けていると、「可哀想」という同情を超えて、こっちも苦しくなってきます。たとえるなら、水の中で息を止めているような感覚です。ここまで引き込まれる映画も珍しいと思います。
<印象的なシーン>
この作品は、主に「暴力」をテーマにした作品です。暴力によって、何がどうなり、それがどういう影響をもたらすかをリアルに描いた作品です。映画のメッセージはどこにあるのか…許しだけが暴力を止める?愛は暴力の連鎖を断ち切る?…ずっと考えながら映画を観ていたのですが、衝撃的なラストを見て、理解しました。「暴力は連鎖する」それがこの映画が伝えたい唯一無二のメッセージだと思います。たとえ傷が癒えたとしても、暴力は見えないところで連鎖していくのです。違う展開はいくらでも用意できたと思いますが、そのことに殉じた製作者には恐れ入ります。
暴力的な借金取りと、男勝りで勝気な女子高生。実は、借金取りは幼い頃の父親のDVがトラウマとなり今も悩まされおり、女子高生は呆けた父親の介護とぐれた弟の世話に追われ、二人とも自分の人生を投げ出しかかっていた。ひょんなことから知り合った二人は、互いを罵倒しあいながらも、徐々に距離を縮めていく。ちなみにキャッチコピーは「二人でいる時だけ、泣けた」だけど、恋愛映画ではありません。
<多分ここが面白いところ>
・「息もつかせない」ような暴力シーンの連続
喧嘩とか大立ち回りとかそういうのではありません。男が女を殴り、父が息子を殴り、借金取りが債務者を殴る。強い立場の者が、弱い立場の者を痛めつける、見ていて嫌になるような、生々しく、痛々しい暴力です。しかも、その暴力は、親から子供へ、兄貴分から弟分へ、どんどん連鎖していきます。多くの場合、劣悪な環境に生まれ育った故のことで、彼ら自身にほとんど非はありません。見続けていると、「可哀想」という同情を超えて、こっちも苦しくなってきます。たとえるなら、水の中で息を止めているような感覚です。ここまで引き込まれる映画も珍しいと思います。
<印象的なシーン>
この作品は、主に「暴力」をテーマにした作品です。暴力によって、何がどうなり、それがどういう影響をもたらすかをリアルに描いた作品です。映画のメッセージはどこにあるのか…許しだけが暴力を止める?愛は暴力の連鎖を断ち切る?…ずっと考えながら映画を観ていたのですが、衝撃的なラストを見て、理解しました。「暴力は連鎖する」それがこの映画が伝えたい唯一無二のメッセージだと思います。たとえ傷が癒えたとしても、暴力は見えないところで連鎖していくのです。違う展開はいくらでも用意できたと思いますが、そのことに殉じた製作者には恐れ入ります。
2015年4月15日水曜日
フジテレビ「戦う女」が面白い
もう放送は終了してしまいましたが、
フジテレビの深夜に放送していた「戦う女」が
ものすごく面白かったです。
「戦う女」は
「女性のパンツ(下着)」にまつわる
女性ならではの葛藤を描いた、
1話完結(30分)のオムニバスドラマ。
※リトルモア発刊の小泉今日子さんのエッセイをもとに、
広告クリエイターとして著名な高崎卓馬さんが
企画・脚本を務めているそうです。
http://www.littlemore.co.jp/tatakauonna/
ストーリーは門脇麦さん演じる下着店に、様々な女性がやってきて
「自分に合った下着を探す」という件から展開していきます。
たとえば、ちょっと内気な中学生女子が、
塾のイケメン講師に振り向いてもらうために
初めて自分で自分の下着を買いに来たり。
たとえば、恋人との同棲生活に鬱屈した保母さんが、
勤め先の上司との大人の恋愛に憧れて、
恋人に内緒で黒いレースの下着を買いに来たり。
根っこにあるのは
「女性は下着を経て、成長していく」という大きなテーマ。
下着で、自分を変える、理想の自分を手に入れる、自分を表現する、
と言うのは男には理解できない部分もありますが、
「今の自分に納得できず、
理想の自分にちょっとでも近づきたいけど、
具体的に何をどうしていいかよく分からないし
自分を変えることには不安がある」
という気持ちは男女共に同じ。
だから、ちゃんと共感できます。
毎回、女性の下着姿のシーンがあるのですが
セクシャルな感じは全くありません。
第3話で、主人公が一生懸命選んだ下着を、
がっつく上司に一瞬で脱がされる(ガバって)
というシーンがあるのですが、
それもエロさとか全くなくて、
むしろ、コミカルで、同時に
「人生って残酷だな」って思いました。
切なくて、面白い。
面白くて、切ない。
そんなドラマです。
余計な台詞がほとんどなくて、
一つひとつの映像がものすごいキレイで、
しかもキレイなだけじゃなくて、
「これはきっと、こういう気持ちを表現しているんだろうな」
なんて深読みさせるようなイメージがあって、
テレビドラマというか、映画を観ているような感じ。
さすがは、高崎卓馬さんです。
僕は以前から広告畑の人が「伝える力」を活かして
本気でドラマを作ったら
絶対面白くなるって思ってましたけど、
やっぱりその通りでした。
30分でも、これだけのものが作れるんだよなー。すごい。
フジテレビの深夜に放送していた「戦う女」が
ものすごく面白かったです。
「戦う女」は
「女性のパンツ(下着)」にまつわる
女性ならではの葛藤を描いた、
1話完結(30分)のオムニバスドラマ。
※リトルモア発刊の小泉今日子さんのエッセイをもとに、
広告クリエイターとして著名な高崎卓馬さんが
企画・脚本を務めているそうです。
http://www.littlemore.co.jp/tatakauonna/
ストーリーは門脇麦さん演じる下着店に、様々な女性がやってきて
「自分に合った下着を探す」という件から展開していきます。
たとえば、ちょっと内気な中学生女子が、
塾のイケメン講師に振り向いてもらうために
初めて自分で自分の下着を買いに来たり。
たとえば、恋人との同棲生活に鬱屈した保母さんが、
勤め先の上司との大人の恋愛に憧れて、
恋人に内緒で黒いレースの下着を買いに来たり。
根っこにあるのは
「女性は下着を経て、成長していく」という大きなテーマ。
下着で、自分を変える、理想の自分を手に入れる、自分を表現する、
と言うのは男には理解できない部分もありますが、
「今の自分に納得できず、
理想の自分にちょっとでも近づきたいけど、
具体的に何をどうしていいかよく分からないし
自分を変えることには不安がある」
という気持ちは男女共に同じ。
だから、ちゃんと共感できます。
毎回、女性の下着姿のシーンがあるのですが
セクシャルな感じは全くありません。
第3話で、主人公が一生懸命選んだ下着を、
がっつく上司に一瞬で脱がされる(ガバって)
というシーンがあるのですが、
それもエロさとか全くなくて、
むしろ、コミカルで、同時に
「人生って残酷だな」って思いました。
切なくて、面白い。
面白くて、切ない。
そんなドラマです。
余計な台詞がほとんどなくて、
一つひとつの映像がものすごいキレイで、
しかもキレイなだけじゃなくて、
「これはきっと、こういう気持ちを表現しているんだろうな」
なんて深読みさせるようなイメージがあって、
テレビドラマというか、映画を観ているような感じ。
さすがは、高崎卓馬さんです。
僕は以前から広告畑の人が「伝える力」を活かして
本気でドラマを作ったら
絶対面白くなるって思ってましたけど、
やっぱりその通りでした。
30分でも、これだけのものが作れるんだよなー。すごい。
2015年4月7日火曜日
映画目録「キツツキと雨」
<あらすじ>
克彦は森で暮らすキコリ。妻に先立たれ、残された息子とも不仲。病気でタバコも吸えず、甘いものも食べられず。日々の単調な暮らしにちょっと飽きがきている。それが、ひょんなことで知り合った幸一(若手の映画監督)の映画の撮影を手伝うことに。最初は嫌々手伝っていたが、デビュー作で不安な幸一をあの手この手で勇気づけているうちに、妻の3回忌の法要も忘れて、撮影にのめり込んでいく。
<多分ここが面白いところ>
◆役所さん演じる克彦のキャラクターがとても面白いです。冒頭のシーンで木を切り倒している克彦のところに突然映画の助監督がやってきて、映画の撮影をしており、音が入ってしまうので作業を辞めてほしいとお願いするシーンがあるのですが、その噛みあわないやりとりが滑稽で。
「映画の撮影をやっているので」
「え?」
「いや、だから、下で撮影してるんで」
「え?」
「だから、一瞬やめてもらいたいっていうか」
「一瞬?」
「いや、一瞬というかしばらくというか」
「どっちだよ!?」
「どっちかというと、しばらく」
「…枝打ちは?」
「え?」
「枝打ちだよ!」みたいな。
普通なら「察する」ところなんですが、克彦は「きちんと口にしないと分からない」みたいな性格なんですね。しかも、突然怒り出す(いますよね。こういう人)。だから、息子とも上手く折り合いがつかない。滑稽なシーンだけど、主人公がよく描かれているなと思いました。
◆脚本の技法で、台詞に頼らずに心の動きや関係性を表現することを「シャレード」と言いますが、この映画はシャレードだらけです。
○克彦の妻が亡くなってまだ間もないこと
→克彦が女性用スリッパを履いて料理している。居間には仏壇。女性の写真
○克彦の息子が「家のことを顧みない」性格であること
→雨が降っても洗濯物を取りこまない
○克彦が人との距離感に無遠慮な性格であること
→温泉でわざと離れた場所に浸かっている幸一に、ぐんぐん近づいていく
○克彦がぐんぐん映画撮影にのめり込んでいくこと
→格好がどんどんAD化していく(最終的に拡声器を持ちガムテープをたすき掛け)
○最終的に克彦と息子が和解したこと
→食卓で向かい合ってご飯を食べる。しかも同じ作業着。ノリの食べ方まで一緒
「シャレード」は直接的ではないために「分かりにくい」という欠点もありますが、逆に分かった時には「なるほどね」と嬉しくなります。一生懸命映画を観ているご褒美みたいな。それに現実社会でも、何でも口で説明するわけじゃないですしね。リアリティという点でも、すごい勉強になりました。
<印象的なシーン>
当初、盛り上がりに欠けていた撮影現場ですが、克彦が加わることで俄然、活気を増します。克彦は街中の人に声をかけて、ゾンビのエキストラをかき集めるのですが、そのおかげで、日中にも街中にゾンビメイクをした人だらけ…。克彦の妹夫婦が法要のために街を訪れてびっくり。すれ違う人みんなゾンビで「何がどうなっちゃったの?」みたいな。すごい面白いシーンなのですが、沖田監督は、そのシーンを面白いだろ?っていう感じじゃなくて、淡々と映しています。それがまた面白いんですね。すごいなあと思いました。
克彦は森で暮らすキコリ。妻に先立たれ、残された息子とも不仲。病気でタバコも吸えず、甘いものも食べられず。日々の単調な暮らしにちょっと飽きがきている。それが、ひょんなことで知り合った幸一(若手の映画監督)の映画の撮影を手伝うことに。最初は嫌々手伝っていたが、デビュー作で不安な幸一をあの手この手で勇気づけているうちに、妻の3回忌の法要も忘れて、撮影にのめり込んでいく。
<多分ここが面白いところ>
◆役所さん演じる克彦のキャラクターがとても面白いです。冒頭のシーンで木を切り倒している克彦のところに突然映画の助監督がやってきて、映画の撮影をしており、音が入ってしまうので作業を辞めてほしいとお願いするシーンがあるのですが、その噛みあわないやりとりが滑稽で。
「映画の撮影をやっているので」
「え?」
「いや、だから、下で撮影してるんで」
「え?」
「だから、一瞬やめてもらいたいっていうか」
「一瞬?」
「いや、一瞬というかしばらくというか」
「どっちだよ!?」
「どっちかというと、しばらく」
「…枝打ちは?」
「え?」
「枝打ちだよ!」みたいな。
普通なら「察する」ところなんですが、克彦は「きちんと口にしないと分からない」みたいな性格なんですね。しかも、突然怒り出す(いますよね。こういう人)。だから、息子とも上手く折り合いがつかない。滑稽なシーンだけど、主人公がよく描かれているなと思いました。
◆脚本の技法で、台詞に頼らずに心の動きや関係性を表現することを「シャレード」と言いますが、この映画はシャレードだらけです。
○克彦の妻が亡くなってまだ間もないこと
→克彦が女性用スリッパを履いて料理している。居間には仏壇。女性の写真
○克彦の息子が「家のことを顧みない」性格であること
→雨が降っても洗濯物を取りこまない
○克彦が人との距離感に無遠慮な性格であること
→温泉でわざと離れた場所に浸かっている幸一に、ぐんぐん近づいていく
○克彦がぐんぐん映画撮影にのめり込んでいくこと
→格好がどんどんAD化していく(最終的に拡声器を持ちガムテープをたすき掛け)
○最終的に克彦と息子が和解したこと
→食卓で向かい合ってご飯を食べる。しかも同じ作業着。ノリの食べ方まで一緒
「シャレード」は直接的ではないために「分かりにくい」という欠点もありますが、逆に分かった時には「なるほどね」と嬉しくなります。一生懸命映画を観ているご褒美みたいな。それに現実社会でも、何でも口で説明するわけじゃないですしね。リアリティという点でも、すごい勉強になりました。
<印象的なシーン>
当初、盛り上がりに欠けていた撮影現場ですが、克彦が加わることで俄然、活気を増します。克彦は街中の人に声をかけて、ゾンビのエキストラをかき集めるのですが、そのおかげで、日中にも街中にゾンビメイクをした人だらけ…。克彦の妹夫婦が法要のために街を訪れてびっくり。すれ違う人みんなゾンビで「何がどうなっちゃったの?」みたいな。すごい面白いシーンなのですが、沖田監督は、そのシーンを面白いだろ?っていう感じじゃなくて、淡々と映しています。それがまた面白いんですね。すごいなあと思いました。
2015年4月6日月曜日
ラジオドラマ「かえるくん、東京を救う」を聞いて
村上春樹さんの短編に
「かえるくん、東京を救う」という小説があります。
ある日、家に帰ると
家の中にかえるくんが待っていて
「一緒にみみずくんを倒そう。
東京を大地震から救おう」と誘われる話です。
主人公は頭も禿げ、お腹も出ている40歳男性。
信用金庫に16年勤め、不良債権回収をしている。
「ただ寝て起きて、飯を食って、クソをしている」と自らを嘲るような人。
そんな主人公に向けて
「あなたのような人にしか東京は救えない」
「あなたのような人のために東京を救いたい」
かえるくんが力説します。
何が何だかよく分からないですが、とにかく面白いです。
村上作品の普遍的テーマの一つである
「名もない市民(大衆)に対する優しいまなざし」
が随所にあふれた作品だと思います。
YOUTUBEでラジオドラマが
アップされていましたので興味のある方はぜひ。
https://www.youtube.com/watch?v=IJEi-i9Wjgc
「かえるくん、東京を救う」という小説があります。
ある日、家に帰ると
家の中にかえるくんが待っていて
「一緒にみみずくんを倒そう。
東京を大地震から救おう」と誘われる話です。
主人公は頭も禿げ、お腹も出ている40歳男性。
信用金庫に16年勤め、不良債権回収をしている。
「ただ寝て起きて、飯を食って、クソをしている」と自らを嘲るような人。
そんな主人公に向けて
「あなたのような人にしか東京は救えない」
「あなたのような人のために東京を救いたい」
かえるくんが力説します。
何が何だかよく分からないですが、とにかく面白いです。
村上作品の普遍的テーマの一つである
「名もない市民(大衆)に対する優しいまなざし」
が随所にあふれた作品だと思います。
YOUTUBEでラジオドラマが
アップされていましたので興味のある方はぜひ。
https://www.youtube.com/watch?v=IJEi-i9Wjgc
2015年3月31日火曜日
映画目録「アメリカン・グラフィティ」
<あらすじ>
1962年のカリフォルニア。高校卒業を迎え、それぞれの道を歩き出そうとしている十代の少年少女の「最後の一夜」を描いた青春群像劇。「謎の美女を探して街をさまよう秀才カート」「自立心旺盛だが遠距離恋愛を巡って恋人と諍いをする秀才テリー」「友達の車を借りてナンパに出かけるびびりのスティーブ」「小学生の子守をする羽目になるマッチョな走り屋ミルナー」など。個性豊かなキャラクターが、どこにでもあるようなことに一喜一憂する、それぞれの「一夜」が描かれています。
※ジョージルーカス監督の長編第二作。これでヒットしたお金を使って、後の「スター・ウォーズ」を製作したそうです。
<多分ここが面白いところ>
・一見すると、複数の登場人物のドラマが、何の脈絡もなく、並列に描かれているように見えます、注意深く見て見ると、ある「共通項」でくくることができます。それは「夢・希望(誇示したいこと)」があるに、そのすべてが「目論見から外れてしまっている」ということ。
○カート→謎の美女と会いたい→会えない
○テリー→街を飛び出して夢を追い求める→街から出られない
○スティーブ→女をぶいぶい言わせる→きゃんきゃん言わされる
○ミルナー→走りなら誰にも負けない→負ける
つまり「思うようにいかない」という点で共通しているので。でも、それが青春ですよね。その辺りが、とてもうまく描かれていて、共感できるし、とてもリアルに感じられました。
・舞台である1962年ならではの車・ダンス・音楽などがふんだんに用いられています。それがとてもオシャレです。特に車。あの頃、アメリカでは、こんな車がたくさん走っていたんだなって。いい時代だったのかどうかは分かりませんが、ある種の人にはとても懐かしく感じられたのではないでしょうか。
<印象的なシーン>
登場人物達の冒険を端的に描いたシーンです。たとえば、秀才カートがギャングにいい格好したくて警察車両に罠をしかけたり、優等生のテリーが教師に向かって「一昨日きやがれ」みたいに捨て台詞を吐いたり、びびりのスティーブが女のためにウイスキーを何とか手に入れようと酒店の外でウロウロしたり、走り屋のミルナーが子守をしていた少女と二人で隣の車に整髪料でいたずらしたり。それぞれの登場人物が、「自分」の枠を超えて、「自分」を表現しているように思えて、好感が持てました。まさしく「グラフィティ(落書き)」です。
1962年のカリフォルニア。高校卒業を迎え、それぞれの道を歩き出そうとしている十代の少年少女の「最後の一夜」を描いた青春群像劇。「謎の美女を探して街をさまよう秀才カート」「自立心旺盛だが遠距離恋愛を巡って恋人と諍いをする秀才テリー」「友達の車を借りてナンパに出かけるびびりのスティーブ」「小学生の子守をする羽目になるマッチョな走り屋ミルナー」など。個性豊かなキャラクターが、どこにでもあるようなことに一喜一憂する、それぞれの「一夜」が描かれています。
※ジョージルーカス監督の長編第二作。これでヒットしたお金を使って、後の「スター・ウォーズ」を製作したそうです。
<多分ここが面白いところ>
・一見すると、複数の登場人物のドラマが、何の脈絡もなく、並列に描かれているように見えます、注意深く見て見ると、ある「共通項」でくくることができます。それは「夢・希望(誇示したいこと)」があるに、そのすべてが「目論見から外れてしまっている」ということ。
○カート→謎の美女と会いたい→会えない
○テリー→街を飛び出して夢を追い求める→街から出られない
○スティーブ→女をぶいぶい言わせる→きゃんきゃん言わされる
○ミルナー→走りなら誰にも負けない→負ける
つまり「思うようにいかない」という点で共通しているので。でも、それが青春ですよね。その辺りが、とてもうまく描かれていて、共感できるし、とてもリアルに感じられました。
・舞台である1962年ならではの車・ダンス・音楽などがふんだんに用いられています。それがとてもオシャレです。特に車。あの頃、アメリカでは、こんな車がたくさん走っていたんだなって。いい時代だったのかどうかは分かりませんが、ある種の人にはとても懐かしく感じられたのではないでしょうか。
<印象的なシーン>
登場人物達の冒険を端的に描いたシーンです。たとえば、秀才カートがギャングにいい格好したくて警察車両に罠をしかけたり、優等生のテリーが教師に向かって「一昨日きやがれ」みたいに捨て台詞を吐いたり、びびりのスティーブが女のためにウイスキーを何とか手に入れようと酒店の外でウロウロしたり、走り屋のミルナーが子守をしていた少女と二人で隣の車に整髪料でいたずらしたり。それぞれの登場人物が、「自分」の枠を超えて、「自分」を表現しているように思えて、好感が持てました。まさしく「グラフィティ(落書き)」です。
2015年3月20日金曜日
映画目録「夫婦善哉(めおとぜんざい)」
<あらすじ>
舞台は昭和初期。大問屋の若旦那と芸者が、かけおちするところからドラマは始まる。その仲を何とか周囲に認めさせたい若旦那だが、癇癪を起した父親から勘当されてしまう。不憫に思った芸者は「わたいがあんたを一人前の男にしたる」と必死で気張るが、若旦那は「いつか実家に戻れる」と楽天的で一向に働く様子がない。そのうち、妹の婿養子に実家を牛耳られてしまうが、それでも未練たらたら。自立しようと色々商売に手を出すが、ことごとく上手くいかない。やがて腎臓病まで病むように。そんな若旦那を時に罵り、時におだて、時にひっぱたき、かいがいしく支える続ける芸者。そんな内縁の夫婦生活を丁寧に描いた描いた作品です。
<多分ここが面白いところ>
・何事にも楽観的で、調子だけよくて、いざとなると何もできない気弱な若旦那。真面目で自立心も旺盛だが、いざとなると無鉄砲な気の強い芸者。夫婦の対比されたキャラクターが抜群です。大阪弁もイキイキしていて、二人のやりとりを見ているだけでも十分面白いです。シナリオセンターで教科書的に扱われ、「一度は見ておくべき」と言われているのも納得です。作られたのは昭和30年(1955年)と言いますが、時代を経ても全く色あせていません。
・若旦那のダメっぷりですね。妻子ある身で女とかけおちして、実家を追い出された後も「金をよこせ」とせびりにいき、番頭相手に「俺が店を継いだらお前を大番頭にしてやる」と幅をきかせ、身を寄せた芸者の両親の実家を「小汚い家だ」とののしり、芸者が働いている間は寝ていて、夜になると芸者がコツコツ貯めた金で飲みに出かける。まったくどうしようもない奴です。ドラマの過程で「捨てた娘への愛情に気づく」「芸者への感謝・謝罪の念を覚える」などターニングポイントもいくつか用意されているのですが、それでも一向に、立ち直らない。作り手のご都合主義に走らないダメっぷりが、見ている側にはリアルで、秀逸です。
<印象的なシーン>
芸者が若旦那を、叩いたり、引っ張ったり、蹴ったりするシーンが多々見受けられます。これが、コミカルでとても面白いです。映画としては重苦しい・単調な題材なのに、これだけコミカルで面白いのは、このシーンのおかげだと思います。でも、昭和初期にこういう男女関係ってあったのでしょうか。もしあったとしたら、男女関係って、今も昔もあんまり変わってないんですね。いつの時代も、女性は強いものです。
舞台は昭和初期。大問屋の若旦那と芸者が、かけおちするところからドラマは始まる。その仲を何とか周囲に認めさせたい若旦那だが、癇癪を起した父親から勘当されてしまう。不憫に思った芸者は「わたいがあんたを一人前の男にしたる」と必死で気張るが、若旦那は「いつか実家に戻れる」と楽天的で一向に働く様子がない。そのうち、妹の婿養子に実家を牛耳られてしまうが、それでも未練たらたら。自立しようと色々商売に手を出すが、ことごとく上手くいかない。やがて腎臓病まで病むように。そんな若旦那を時に罵り、時におだて、時にひっぱたき、かいがいしく支える続ける芸者。そんな内縁の夫婦生活を丁寧に描いた描いた作品です。
<多分ここが面白いところ>
・何事にも楽観的で、調子だけよくて、いざとなると何もできない気弱な若旦那。真面目で自立心も旺盛だが、いざとなると無鉄砲な気の強い芸者。夫婦の対比されたキャラクターが抜群です。大阪弁もイキイキしていて、二人のやりとりを見ているだけでも十分面白いです。シナリオセンターで教科書的に扱われ、「一度は見ておくべき」と言われているのも納得です。作られたのは昭和30年(1955年)と言いますが、時代を経ても全く色あせていません。
・若旦那のダメっぷりですね。妻子ある身で女とかけおちして、実家を追い出された後も「金をよこせ」とせびりにいき、番頭相手に「俺が店を継いだらお前を大番頭にしてやる」と幅をきかせ、身を寄せた芸者の両親の実家を「小汚い家だ」とののしり、芸者が働いている間は寝ていて、夜になると芸者がコツコツ貯めた金で飲みに出かける。まったくどうしようもない奴です。ドラマの過程で「捨てた娘への愛情に気づく」「芸者への感謝・謝罪の念を覚える」などターニングポイントもいくつか用意されているのですが、それでも一向に、立ち直らない。作り手のご都合主義に走らないダメっぷりが、見ている側にはリアルで、秀逸です。
<印象的なシーン>
芸者が若旦那を、叩いたり、引っ張ったり、蹴ったりするシーンが多々見受けられます。これが、コミカルでとても面白いです。映画としては重苦しい・単調な題材なのに、これだけコミカルで面白いのは、このシーンのおかげだと思います。でも、昭和初期にこういう男女関係ってあったのでしょうか。もしあったとしたら、男女関係って、今も昔もあんまり変わってないんですね。いつの時代も、女性は強いものです。
2015年3月11日水曜日
映画目録「マン・オブ・ザ・ムーン」
<あらすじ>
子供の頃から、人を驚かせ、楽しませるのが好きなアンディ・カウフマン。TVの人気番組への出演をきっかけに一気に人気コメディアンの仲間入りを果たすが、マンネリを嫌うアンディは演出家の意見を無視して、独創的なパフォーマンスばかり。周囲の反対・諫言にも「面白ければそれでいい」と一切耳を貸さない。あげくに「世界無性別級チャンピオン」を名乗り、女性相手に金をかけてプロレスまでやりはじめる始末。ある時、アンディは末期の肺がんを宣告され悲嘆にくれるが、周囲は「また嘘を言って」と誰も信用してくれない。
※ 35歳でこの世を去った伝説のコメディアン・アンディ・カウフマンの生涯を描いた作品です。監督は「アマデウス」「ラリー・フリント」のミロス・フォアマンです。
<多分ここが面白いところ>
・冒頭5分のシーン。アンディが「自分の人生を編集したら、何にも残らなかった」と言うシーン。最初は、何が何なのかさっぱり分からないのですが、映像をすべて見終わった後、思い出すに、おそらく「多くのパフォーマンスが放送上カットされてきた」という事実を皮肉っているのだと思います。
・アンディが思う「楽しさ」と世間一般の「楽しさ」のズレが面白いです。たとえば、TVの収録映像に手を加え、見ている人に「TVが壊れた?」と思わせるように仕向けたり、ライブで「華麗なるギャッツビー」の全編を朗読してみたり。前衛的すぎて周囲には全く理解されないのですが、それでもアンディは楽しそうです。今なら「シュール」で片付けられるのですが、30年も前のことですからね。頭がおかしいと思われたんだろうなー。今見てもよく分からないですし。
・アンディが別キャラとして演じている「トニー・クリフトン」が面白いです。客や共演者をいじり倒して、悪く言う、毒蝮三太夫みたいなキャラクターなのですが、とにかく、口が悪い。でも、見ているとやっぱり、スカっとするんですよね。何ででしょう? 我々はそんなに抑圧的な毎日を送っており、心のどこかで常にトニーのような振る舞いに憧れているという事でしょうか。
<印象的なシーン>
末期の病に冒されたアンディは、藁にもすがる思いで、フィリピンの怪しげな名医を訪ねます。メスを使わずに体の悪いところを抜き取る、みたいな。しかし、そこで目にしたのは、嘘っぱちの手品でした。それまでヨガなど東洋医学を信じてきたアンディですが、偽医者の行いを目にして、思わず笑います。騙されたと怒るのでもなく、悲しむのでもなく、笑うのです。「どんな状況下でも、面白いことが優先される」というアンディの生き様が、はっきりと表れている、いいシーンだったと思います。
子供の頃から、人を驚かせ、楽しませるのが好きなアンディ・カウフマン。TVの人気番組への出演をきっかけに一気に人気コメディアンの仲間入りを果たすが、マンネリを嫌うアンディは演出家の意見を無視して、独創的なパフォーマンスばかり。周囲の反対・諫言にも「面白ければそれでいい」と一切耳を貸さない。あげくに「世界無性別級チャンピオン」を名乗り、女性相手に金をかけてプロレスまでやりはじめる始末。ある時、アンディは末期の肺がんを宣告され悲嘆にくれるが、周囲は「また嘘を言って」と誰も信用してくれない。
※ 35歳でこの世を去った伝説のコメディアン・アンディ・カウフマンの生涯を描いた作品です。監督は「アマデウス」「ラリー・フリント」のミロス・フォアマンです。
<多分ここが面白いところ>
・冒頭5分のシーン。アンディが「自分の人生を編集したら、何にも残らなかった」と言うシーン。最初は、何が何なのかさっぱり分からないのですが、映像をすべて見終わった後、思い出すに、おそらく「多くのパフォーマンスが放送上カットされてきた」という事実を皮肉っているのだと思います。
・アンディが思う「楽しさ」と世間一般の「楽しさ」のズレが面白いです。たとえば、TVの収録映像に手を加え、見ている人に「TVが壊れた?」と思わせるように仕向けたり、ライブで「華麗なるギャッツビー」の全編を朗読してみたり。前衛的すぎて周囲には全く理解されないのですが、それでもアンディは楽しそうです。今なら「シュール」で片付けられるのですが、30年も前のことですからね。頭がおかしいと思われたんだろうなー。今見てもよく分からないですし。
・アンディが別キャラとして演じている「トニー・クリフトン」が面白いです。客や共演者をいじり倒して、悪く言う、毒蝮三太夫みたいなキャラクターなのですが、とにかく、口が悪い。でも、見ているとやっぱり、スカっとするんですよね。何ででしょう? 我々はそんなに抑圧的な毎日を送っており、心のどこかで常にトニーのような振る舞いに憧れているという事でしょうか。
<印象的なシーン>
末期の病に冒されたアンディは、藁にもすがる思いで、フィリピンの怪しげな名医を訪ねます。メスを使わずに体の悪いところを抜き取る、みたいな。しかし、そこで目にしたのは、嘘っぱちの手品でした。それまでヨガなど東洋医学を信じてきたアンディですが、偽医者の行いを目にして、思わず笑います。騙されたと怒るのでもなく、悲しむのでもなく、笑うのです。「どんな状況下でも、面白いことが優先される」というアンディの生き様が、はっきりと表れている、いいシーンだったと思います。
2015年3月9日月曜日
ドラマ「ミタライ」が残念すぎる。ファン無念
3/7(土)21:00~
『天才探偵ミタライ~難解事件ファイル「傘を折る女」~』
というドラマが放映されました。
これは、島田荘司さん原作の小説「御手洗潔」シリーズの、
ファン待望のドラマ化です。
これまでどれだけTV局からオファーを受けようが
「日本人なんかに御手洗は任せられない」と断固拒否していた島田さんですが、
たぶん、お年を召して、考え方が変わったんでしょうね。
最近では漫画化も果たしました。
映画化・ドラマ化も時間の問題と言われていましたし。
主演は
・御手洗潔→玉木宏さん
・石岡君→堂本光一さんです。
※玉木さんは、島田さんたっての希望だそうです。
私の希望としては
・御手洗潔→伊勢谷友介(イケメンで知的で野性味がある人がいいです)
・石岡君→坂口憲二or海老蔵(マッチョで一途な感じの人がいいです))
をイメージしていたのですが。
断っておきますが、私は“御手洗潔の大ファン”です。
中学生の時に初めて「異邦の騎士」を呼んで以来、20年以上。
もちろん、作品はすべて目を通しています。
だから、言う権利があるとまでは言いませんが(笑)
せいぜいドラマを見ながら
「ここはもうちょっとこうしてほしい」
「いや、ここはこうだよ!」
なんて、やいのやいの言いながら楽しもうと思っていたのです。
思っていたのですが……演出・脚本がひどすぎて、
途中でそれさえもやめてしまいました。
●“御手洗潔”の魅力が全く描かれていない
ドラマを一緒に見ていた妻に途中で
「ミタライって何か感じ悪いね」と言われました。
「何で?」
「だって、無口で、無愛想で、女嫌いじゃん」
…いやいやいやいやいや、ちょっと待って下さい。
そんなの、御手洗の表面的な特徴でしょ。
たとえば、無口なのは、喋るのが面倒だからでしょ。
喋るのが面倒なのは、会話・状況を先読みできるからでしょ。
それぐらい、御手洗は頭がよすぎるの。そういうことなの。
それに
・無口じゃないよ、饒舌だよ(人をからかう時のお喋りはすごいんだから)
・無愛想だけど、意外に優しいんだ(数字錠の話なんか、泣けるよ)
・女嫌いな分、犬が好きなんだ。犬を死ぬほど愛してるんだ面白いだろ。
…何で私が弁解しなきゃいけないんでしょうか。
でも、何も知らない妻が見て、そう思うんだから、
世間一般の人はミタライのことを
「感じ悪い」「とっつきにくい」そう思ったんでしょうね。
中には「ガリレオの二番煎じ」と思った人もいるかもしれません。
残念です。これだけ魅力のある人なのに…。
にしても、悔やむべきはお粗末な演出・脚本です。
ここまでくると、役者さんのせいではありません。
「脚本の人、何やってんだろうな」
途中から、御手洗のファンではなく、作り手の視点で見てしまいました。
以下、気づいたところです。
●動きがなさすぎる
確かに、御手洗は頭だけを働かせる「安楽椅子探偵」ですが
それはあくまで小説の話。映像のあるドラマでは
会話だけで推理を追うのは無理があります。何より、退屈すぎます。
御手洗はバイクに乗れるし、喧嘩も強い。
スーパーマンぐらいの設定で、いいはずなのに・・・。
●余計なキャラに余計な時間を使いすぎている
ドラマに出てくるキャラクターには、2つの意味があると思います。
1つには「主人公のキャラを際立たせるための役どころ」
もう1つは「そのキャラそのものが魅力的」
結論から言うと、刑事2名はどちらの意味でも必要なかったと思います。
彼らがいてもいなくても、事件には大差なかったのではないでしょうか。
残念です。彼らに割いていた時間があったら、
御手洗というキャラクターを掘り下げて描くべきだったと思います。
●そもそも、この題材を選ぶべきではなかった
なぜ「傘を折る女」を選んだのでしょう。これはそもそも短編です。
いくら膨らませるにしても、2時間にするには無理があります。
また、既に終わってしまったことを後から暴き出すという話であり
絵的にも、冒険活劇にもなりにくいという問題があります。
同じ短編でも「山高帽のイカロス」とか「ある騎士の物語」とか
「数字錠」とか「UFO大通り」とか他に、もっとあったと思います。
いくつかを組み合わせるとか…できたはずなのに。なぜ、これを。。。
●石岡君を語り手にすべきだった
御手洗シリーズは、シャーロックホームズと同じく、
「パートナーが語り手となる」という形をとっています。
つまり、石岡君がワトソンの役割を果たすわけです。
愛情あるフィルタリングのおかげで、
読んでいる側(見ている側)も安心して、物語に没頭できるのです。
私は、今回のドラマも、石岡君のナレーションを入れるなりして
その形をとるべきだったと思います。
そうすれば、御手洗の紹介もかなり容易にできたはずです。
そうすれば、古い事件も、回顧録として使えたはずです。
何より、石岡君の視点で、安心して見ていられたはずです。
…あげだしたら、きりがなくなってきました。
とにかく、とてもとても残念です。それしかありません。
島田さんも「これでOK」と言ったのでしょうか。
むしろ「これでいけ」とでも言ったのでしょうか。
そう考えると、ますます残念でなりません。
追記:
http://kodanshabunko.com/mitarai.html
記事が出ていました。
やはり、島田さんがほぼすべてを決めていたようですね。
島田さんに言われたら、そうせざるを得ないでしょうね。
現場ももどかしかったと思います。合掌。
『天才探偵ミタライ~難解事件ファイル「傘を折る女」~』
というドラマが放映されました。
これは、島田荘司さん原作の小説「御手洗潔」シリーズの、
ファン待望のドラマ化です。
これまでどれだけTV局からオファーを受けようが
「日本人なんかに御手洗は任せられない」と断固拒否していた島田さんですが、
たぶん、お年を召して、考え方が変わったんでしょうね。
最近では漫画化も果たしました。
映画化・ドラマ化も時間の問題と言われていましたし。
主演は
・御手洗潔→玉木宏さん
・石岡君→堂本光一さんです。
※玉木さんは、島田さんたっての希望だそうです。
・御手洗潔→伊勢谷友介(イケメンで知的で野性味がある人がいいです)
・石岡君→坂口憲二or海老蔵(マッチョで一途な感じの人がいいです))
をイメージしていたのですが。
断っておきますが、私は“御手洗潔の大ファン”です。
中学生の時に初めて「異邦の騎士」を呼んで以来、20年以上。
もちろん、作品はすべて目を通しています。
だから、言う権利があるとまでは言いませんが(笑)
せいぜいドラマを見ながら
「ここはもうちょっとこうしてほしい」
「いや、ここはこうだよ!」
なんて、やいのやいの言いながら楽しもうと思っていたのです。
思っていたのですが……演出・脚本がひどすぎて、
途中でそれさえもやめてしまいました。
●“御手洗潔”の魅力が全く描かれていない
ドラマを一緒に見ていた妻に途中で
「ミタライって何か感じ悪いね」と言われました。
「何で?」
「だって、無口で、無愛想で、女嫌いじゃん」
…いやいやいやいやいや、ちょっと待って下さい。
そんなの、御手洗の表面的な特徴でしょ。
たとえば、無口なのは、喋るのが面倒だからでしょ。
喋るのが面倒なのは、会話・状況を先読みできるからでしょ。
それぐらい、御手洗は頭がよすぎるの。そういうことなの。
それに
・無口じゃないよ、饒舌だよ(人をからかう時のお喋りはすごいんだから)
・無愛想だけど、意外に優しいんだ(数字錠の話なんか、泣けるよ)
・女嫌いな分、犬が好きなんだ。犬を死ぬほど愛してるんだ面白いだろ。
…何で私が弁解しなきゃいけないんでしょうか。
でも、何も知らない妻が見て、そう思うんだから、
世間一般の人はミタライのことを
「感じ悪い」「とっつきにくい」そう思ったんでしょうね。
中には「ガリレオの二番煎じ」と思った人もいるかもしれません。
残念です。これだけ魅力のある人なのに…。
にしても、悔やむべきはお粗末な演出・脚本です。
ここまでくると、役者さんのせいではありません。
「脚本の人、何やってんだろうな」
途中から、御手洗のファンではなく、作り手の視点で見てしまいました。
以下、気づいたところです。
●動きがなさすぎる
確かに、御手洗は頭だけを働かせる「安楽椅子探偵」ですが
それはあくまで小説の話。映像のあるドラマでは
会話だけで推理を追うのは無理があります。何より、退屈すぎます。
御手洗はバイクに乗れるし、喧嘩も強い。
スーパーマンぐらいの設定で、いいはずなのに・・・。
●余計なキャラに余計な時間を使いすぎている
ドラマに出てくるキャラクターには、2つの意味があると思います。
1つには「主人公のキャラを際立たせるための役どころ」
もう1つは「そのキャラそのものが魅力的」
結論から言うと、刑事2名はどちらの意味でも必要なかったと思います。
彼らがいてもいなくても、事件には大差なかったのではないでしょうか。
残念です。彼らに割いていた時間があったら、
御手洗というキャラクターを掘り下げて描くべきだったと思います。
●そもそも、この題材を選ぶべきではなかった
なぜ「傘を折る女」を選んだのでしょう。これはそもそも短編です。
いくら膨らませるにしても、2時間にするには無理があります。
また、既に終わってしまったことを後から暴き出すという話であり
絵的にも、冒険活劇にもなりにくいという問題があります。
同じ短編でも「山高帽のイカロス」とか「ある騎士の物語」とか
「数字錠」とか「UFO大通り」とか他に、もっとあったと思います。
いくつかを組み合わせるとか…できたはずなのに。なぜ、これを。。。
●石岡君を語り手にすべきだった
御手洗シリーズは、シャーロックホームズと同じく、
「パートナーが語り手となる」という形をとっています。
つまり、石岡君がワトソンの役割を果たすわけです。
愛情あるフィルタリングのおかげで、
読んでいる側(見ている側)も安心して、物語に没頭できるのです。
私は、今回のドラマも、石岡君のナレーションを入れるなりして
その形をとるべきだったと思います。
そうすれば、御手洗の紹介もかなり容易にできたはずです。
そうすれば、古い事件も、回顧録として使えたはずです。
何より、石岡君の視点で、安心して見ていられたはずです。
…あげだしたら、きりがなくなってきました。
とにかく、とてもとても残念です。それしかありません。
島田さんも「これでOK」と言ったのでしょうか。
むしろ「これでいけ」とでも言ったのでしょうか。
そう考えると、ますます残念でなりません。
追記:
http://kodanshabunko.com/mitarai.html
記事が出ていました。
やはり、島田さんがほぼすべてを決めていたようですね。
島田さんに言われたら、そうせざるを得ないでしょうね。
現場ももどかしかったと思います。合掌。
映画目録「灼熱の魂」
<あらすじ>
いるはずのない「兄と父を探せ」という不可解な遺言を残して亡くなる母親。戸惑いつつも、母の故郷レバノンに出かけ、その過去を探りはじめる双子の姉弟。徐々に、宗教紛争に巻き込まれ、過酷な運命に翻弄された母親の姿が明らかになっていく。
<多分ここが面白いところ>
・結末だけ取り上げるなら、およそ救いようのない話です。これを「ヒューマン映画」として真正面から作っていたら、多分、陰惨・悲惨すぎて物語になりえなかったと思います。ドゥニ・ビルヌーブ監督は、主軸を少しずらして、これをサスペンス映画に仕立てました。観客は、子どもの視点になって「母親が抱えた秘密」を一緒に探し、そして、それが明かされた時、子どもと一緒になってショックを受ける、そういうスリリングな体験が可能です。重たい映画なのに楽しめるように作っている。その手法に脱帽です。
・映画はレバノン内戦を題材にした話です。おそらく、民族、宗教など複雑な要因があって、血で血を争う殺し合いが行われたのだと思いますが、それらについて語られることは一切ありません。ちょっとは説明があっても…と序盤は思っていたのですが、そのうち、どうでもよくなりました。要するに「憎しみに憎しみで対抗しようとした結果、ひどいことになる。肝心なのは許すことなのだ」ということが分かればいいのだと思います。これは戦争を描いた映画ではないので。余分なものは極限まで切り落とす。勉強になります。
・母親がなぜ、「兄と父を探せ」と言ったのか。その謎はラスト10分で明かされます。本当に、キレイに、スカっと(内容は陰惨ですが)明かされます。しかも、サスペンスだけで終わらず、メッセージ性もきちんとした形で伝えられます(肝心なのは許すこと)。『プリズナーズ』の時も、風呂敷たたむの上手いなあと思いましたが、今回も改めて実感しました。
<印象的なシーン>
プールの使い方が絶妙です。出生の秘密を知った双子の姉弟が、プールで体を小さく丸めて潜っているシーンとか(生前の胎児としてのモチーフ)、一心不乱に泳ぐシーンとか(必死で運命に逆らおうとしている姿のモチーフ)。演出だけでなく、「母親がなぜプールで自我を崩壊したのか」最後のラストシーンで「なるほど」とうならされました。「プール」という柱を選んだのはすごいです。
いるはずのない「兄と父を探せ」という不可解な遺言を残して亡くなる母親。戸惑いつつも、母の故郷レバノンに出かけ、その過去を探りはじめる双子の姉弟。徐々に、宗教紛争に巻き込まれ、過酷な運命に翻弄された母親の姿が明らかになっていく。
<多分ここが面白いところ>
・結末だけ取り上げるなら、およそ救いようのない話です。これを「ヒューマン映画」として真正面から作っていたら、多分、陰惨・悲惨すぎて物語になりえなかったと思います。ドゥニ・ビルヌーブ監督は、主軸を少しずらして、これをサスペンス映画に仕立てました。観客は、子どもの視点になって「母親が抱えた秘密」を一緒に探し、そして、それが明かされた時、子どもと一緒になってショックを受ける、そういうスリリングな体験が可能です。重たい映画なのに楽しめるように作っている。その手法に脱帽です。
・映画はレバノン内戦を題材にした話です。おそらく、民族、宗教など複雑な要因があって、血で血を争う殺し合いが行われたのだと思いますが、それらについて語られることは一切ありません。ちょっとは説明があっても…と序盤は思っていたのですが、そのうち、どうでもよくなりました。要するに「憎しみに憎しみで対抗しようとした結果、ひどいことになる。肝心なのは許すことなのだ」ということが分かればいいのだと思います。これは戦争を描いた映画ではないので。余分なものは極限まで切り落とす。勉強になります。
・母親がなぜ、「兄と父を探せ」と言ったのか。その謎はラスト10分で明かされます。本当に、キレイに、スカっと(内容は陰惨ですが)明かされます。しかも、サスペンスだけで終わらず、メッセージ性もきちんとした形で伝えられます(肝心なのは許すこと)。『プリズナーズ』の時も、風呂敷たたむの上手いなあと思いましたが、今回も改めて実感しました。
<印象的なシーン>
プールの使い方が絶妙です。出生の秘密を知った双子の姉弟が、プールで体を小さく丸めて潜っているシーンとか(生前の胎児としてのモチーフ)、一心不乱に泳ぐシーンとか(必死で運命に逆らおうとしている姿のモチーフ)。演出だけでなく、「母親がなぜプールで自我を崩壊したのか」最後のラストシーンで「なるほど」とうならされました。「プール」という柱を選んだのはすごいです。
2015年2月25日水曜日
NHKドラマ「徒歩7分」全8話を見終えて
「徒歩7分」が最終回を迎えました。
面白い面白いと連呼してきましたが、
ここで、もう一度、このドラマがどんなドラマだったのか、
見直してみたいと思います。
◆テーマ
以前このドラマは
「引きこもりの主人公が
徐々に社会性を獲得する(関わりを広げる)、
その過程を描くドラマ」と指摘したのですが、少し違ったようです。
正しくは
「将来を絶望した主人公が
希望を見出すまでを描いたドラマ」
だったようです。
◆最終的なドラマ(変化)
<依存から自立へ>
名前の通り、実家の両親や彼氏、妹に依存しまくっていた依子ですが
最終的には、実家を出て、妹と離れ、挙句、復縁を迫る元彼を袖にします。
おまけに「漫画家を目指す」という訳のわからない夢まで持ってしまいます。
<絶望から希望へ>
周囲の人と上手くコミュニケーションが取れなかった依子ですが
隣人の咲江との別れのシーンでは、涙を流します。
そして、何かの理由で飛び出してきた実家に対しても(理由やはり明かされなかった)
最後には父親に電話して「正月は家に帰るよ」と宣言します。
◆最終的な感想
ラストは少々、物足りなかった感じはします。
・なぜ、漫画家?
・田中との関係性はどうなった?
・どうして途中でフランス人が出てきたの?
相変わらず、疑問符だらけです。、
すべてを回収する必要はないのですが…
安定しているけど、
これまでのどうしようもない自分と地続きの
誰かに依存した未来よりも、
不安定でもいいから、
これまでとかけはなれたスペシャルな未来を
自分の手でつかみとるべき。
というメッセージ性は十分伝わったのですが
そのモチーフが「漫画家」というのは…うーん。
他に、もっともっとぶっ飛んでいてもよかったような・・・。
もしくは、漫画家でいくなら、もうちょっと伏線がほしかったかなあ。
とはいえ、
前半が面白すぎて「最後はどうなるんだろう?」
と期待値が上がりすぎていたせいもあります。
これだけでも十分に面白かったし、
「今季最高」という評価も変わりありません。
何より「他にはない作品」でした。
脚本の前田さんもさることながら、
この雰囲気をしっかり再現した
演出の方もすごい優秀だなと思います。
とても勉強になりました。
面白い面白いと連呼してきましたが、
ここで、もう一度、このドラマがどんなドラマだったのか、
見直してみたいと思います。
◆テーマ
以前このドラマは
「引きこもりの主人公が
徐々に社会性を獲得する(関わりを広げる)、
その過程を描くドラマ」と指摘したのですが、少し違ったようです。
正しくは
「将来を絶望した主人公が
希望を見出すまでを描いたドラマ」
だったようです。
◆最終的なドラマ(変化)
<依存から自立へ>
名前の通り、実家の両親や彼氏、妹に依存しまくっていた依子ですが
最終的には、実家を出て、妹と離れ、挙句、復縁を迫る元彼を袖にします。
おまけに「漫画家を目指す」という訳のわからない夢まで持ってしまいます。
<絶望から希望へ>
周囲の人と上手くコミュニケーションが取れなかった依子ですが
隣人の咲江との別れのシーンでは、涙を流します。
そして、何かの理由で飛び出してきた実家に対しても(理由やはり明かされなかった)
最後には父親に電話して「正月は家に帰るよ」と宣言します。
◆最終的な感想
ラストは少々、物足りなかった感じはします。
・なぜ、漫画家?
・田中との関係性はどうなった?
・どうして途中でフランス人が出てきたの?
相変わらず、疑問符だらけです。、
すべてを回収する必要はないのですが…
安定しているけど、
これまでのどうしようもない自分と地続きの
誰かに依存した未来よりも、
不安定でもいいから、
これまでとかけはなれたスペシャルな未来を
自分の手でつかみとるべき。
というメッセージ性は十分伝わったのですが
そのモチーフが「漫画家」というのは…うーん。
他に、もっともっとぶっ飛んでいてもよかったような・・・。
もしくは、漫画家でいくなら、もうちょっと伏線がほしかったかなあ。
とはいえ、
前半が面白すぎて「最後はどうなるんだろう?」
と期待値が上がりすぎていたせいもあります。
これだけでも十分に面白かったし、
「今季最高」という評価も変わりありません。
何より「他にはない作品」でした。
脚本の前田さんもさることながら、
この雰囲気をしっかり再現した
演出の方もすごい優秀だなと思います。
とても勉強になりました。
2015年2月23日月曜日
映画目録「俺たちに明日はない」
<あらすじ>
刑務所帰りの男(ボニー)と、平凡な田舎暮らしに飽き飽きした女(クライド)。未来のない閉塞的な日常を打破するために、銀行強盗を企てる。そこにガソリンスタンド店員と、ボニーの兄夫婦が加わり、いつしか一味は「バロウズ・ギャング」と呼ばれるように。時は、大恐慌時代。資本家の手先である銀行や警察に徹底的に牙をむくバロウズ・ギャングは、土地や仕事を追われた一部の民衆からはヒーロー扱いされるが、警察からは目の敵にされ、徐々に追い詰められていく。
※ボニー&クライドは、実在した銀行強盗犯をモチーフにしているそうです。
<多分ここが面白いところ>
・ボニーとクライドの関係性。ボニーはタフでマッチョですが、性的に自信がありません(肝心な時にたたないEDみたいなものかな)。反対に、ボニーは性的関係を結ぶことに慣れています。当初、ボニーはそんなクライドに嫌悪感すら抱いていますが、犯罪を繰り返す中で、徐々に心と体を許していくようになります。それが、細かくリアルに描写されています。単なる犯罪映画ではなく、どこか「純愛映画」の様相を見せるのは、そのためだと思います。
・説明台詞に頼らず、心情や境遇をよく言い表しています。たとえば、冒頭、部屋の中で、素っ裸でウロウロして、ベッドの格子を掴んで歯ぎしりするクライド。これは「抑圧された暮らしに飽き飽きしている」のがよく分かります。ボニーについても同様です。「クライドに興味はあるけれど、性的に自信がないのでセックスできない」という難しい状況を、言葉を使わずに、演技だけで表現しています。
・ボニー&クライドは、自分のためだけに銀行強盗と人殺しを繰り返す、どうしようもない人間達です。本来なら共感性が見いだせないですが、なぜか、それほど憎めません。これは本人達のキャラクターもさることながら、背景にある「大恐慌」という時代性を上手く描いているからだと思います。たとえば、この時代は、多くの農民が、借金のカタに銀行に土地を取り上げられ、生活の糧とプライドを奪われており、「怒り」と「無力感」にさいなまれています。ボニー&クライドには「抑圧する社会体制と闘う」という位置づけがあるため、見ている側も、それほど憎めないのだと思います。現題「ボニー&クライド」を、邦題「俺たちに明日はない」と名付けた人はすごいですね。
<印象的なシーン>
ラストです。撃ち殺される寸前、「やばい」というのを察したボニーが、クライドを案じるように見ると、クライドもボニーを見返すんです。そして、見つめ合う。時間にしてほんの1秒足らずですが、これが愛し合う二人の最期って感じで、すごくいいです。回想だのカットバックだのに頼らずとも、これだけで、関係性を上手く表現できるんですね。勉強になるというか、「映画ってすげえな」と改めて思いました。
刑務所帰りの男(ボニー)と、平凡な田舎暮らしに飽き飽きした女(クライド)。未来のない閉塞的な日常を打破するために、銀行強盗を企てる。そこにガソリンスタンド店員と、ボニーの兄夫婦が加わり、いつしか一味は「バロウズ・ギャング」と呼ばれるように。時は、大恐慌時代。資本家の手先である銀行や警察に徹底的に牙をむくバロウズ・ギャングは、土地や仕事を追われた一部の民衆からはヒーロー扱いされるが、警察からは目の敵にされ、徐々に追い詰められていく。
※ボニー&クライドは、実在した銀行強盗犯をモチーフにしているそうです。
<多分ここが面白いところ>
・ボニーとクライドの関係性。ボニーはタフでマッチョですが、性的に自信がありません(肝心な時にたたないEDみたいなものかな)。反対に、ボニーは性的関係を結ぶことに慣れています。当初、ボニーはそんなクライドに嫌悪感すら抱いていますが、犯罪を繰り返す中で、徐々に心と体を許していくようになります。それが、細かくリアルに描写されています。単なる犯罪映画ではなく、どこか「純愛映画」の様相を見せるのは、そのためだと思います。
・説明台詞に頼らず、心情や境遇をよく言い表しています。たとえば、冒頭、部屋の中で、素っ裸でウロウロして、ベッドの格子を掴んで歯ぎしりするクライド。これは「抑圧された暮らしに飽き飽きしている」のがよく分かります。ボニーについても同様です。「クライドに興味はあるけれど、性的に自信がないのでセックスできない」という難しい状況を、言葉を使わずに、演技だけで表現しています。
・ボニー&クライドは、自分のためだけに銀行強盗と人殺しを繰り返す、どうしようもない人間達です。本来なら共感性が見いだせないですが、なぜか、それほど憎めません。これは本人達のキャラクターもさることながら、背景にある「大恐慌」という時代性を上手く描いているからだと思います。たとえば、この時代は、多くの農民が、借金のカタに銀行に土地を取り上げられ、生活の糧とプライドを奪われており、「怒り」と「無力感」にさいなまれています。ボニー&クライドには「抑圧する社会体制と闘う」という位置づけがあるため、見ている側も、それほど憎めないのだと思います。現題「ボニー&クライド」を、邦題「俺たちに明日はない」と名付けた人はすごいですね。
<印象的なシーン>
ラストです。撃ち殺される寸前、「やばい」というのを察したボニーが、クライドを案じるように見ると、クライドもボニーを見返すんです。そして、見つめ合う。時間にしてほんの1秒足らずですが、これが愛し合う二人の最期って感じで、すごくいいです。回想だのカットバックだのに頼らずとも、これだけで、関係性を上手く表現できるんですね。勉強になるというか、「映画ってすげえな」と改めて思いました。
2015年2月20日金曜日
前田司郎さん『ジ・エクストリーム・スキヤキ』を読む
NHKドラマ「徒歩7分」で魅せられ、
すっかりはまってしまった前田司郎さん。
立ち寄った本屋で最新作の小説
『ジ・エクストリーム・スキヤキ』を見つけたので
先日、ハワイに出かける際に
飛行機で暇だろうからと購入しました。
簡単なあらすじを説明するとい
「男女4人がスキヤキする」という話です。
それだけ?
それだけです。
思うんですが、前田さんの作品はいつも「それだけ」です。
それだけなのに、面白いんです。
だから、すごいんです。
<簡単な流れ>
会社を辞めた無職の男が
大学時代の友人を10何年か振りに訪ねる。
ちなみにそいつは、未だにフリーター。
偶然目にした店頭の「スキヤキ専用鍋」に魅せられた男は
よく分かんないけど「みんなでスキヤキやろう」と言い出す。
で、2人だけじゃあれなんで、ということで
大学時代の元恋人に声をかけ、
更にその後輩の小悪魔的女子が加わる。
ぼろい車に乗った4人は、あてもなくドライブする。
読み進めていくと、
「大学時代の共通の友人が死んで
それをきっかけに疎遠になった」
ということが分かってくるのですが、
例によって、そいつが何で死んだかは明かされません。
死ぬまでに複雑な人間関係があった(誰と誰が好き同士で、誰と誰が付き合ってたとか)
ようなのですが、それも明らかにはされません。
それだけじゃありません。
・主人公が、何で会社辞めたのか
・その友人が、何でフリーターを続けてるのか
・女が、何で10年ぶりの元彼の誘いにのってきたのか
・小悪魔女子が、何で見知らぬ無職とフリーターの、さえない男達とのドライブにのってきたのか
なーんにも明らかにされません。
みんな孤独で、腹の底に何か抱えてるんですが、
それが何なのか明かされません。
前田さん。相変わらずです。
私達の前に提示されるのは「孤独の上澄み」だけです。
そんな4人が、ラストシーンでね。
ぼろい旅館の一室で、スキヤキをするんです。
こそこそ、隠れて。
「おー」なんて感じで。ちょっと盛り上がったりして。
それが微笑ましくて、また、切ないのです。
そこには、昔、親しかった友人と久しぶりに再会した時の
あの「空気感」が、ものすごくリアルに再現されています。
距離感があるところとか
それに気づかないような振りをするところとか
わざとらしく振る舞って、その距離を埋めようとするところとか
でも、埋まらない、というか、詰め切れないところとか。
「ほんっとうまいよなー」
ハワイのホテルの、無駄にふかふかなベッドの上で、うなってしまいました。
ちなみに、これ、もう映画化されているそうです。
しかも、主演の二人が、井浦新と窪塚洋介。
https://www.youtube.com/watch?v=O9_3Ju3Ded4
…すごいですよね。誰がこのキャスティングしたんでしょうか。
いや、だって、この二人って「ピンポン」の二人ですよ。
スマイルとペコですよ。11年ぶりの共演なんですよ。
それが、10何年振りに再会する友人役?
前田さん、すごい。
ますます尊敬します。
早速DVD頼んじゃいました。
できれば、映画館で観たかった―。
すっかりはまってしまった前田司郎さん。
立ち寄った本屋で最新作の小説
『ジ・エクストリーム・スキヤキ』を見つけたので
先日、ハワイに出かける際に
飛行機で暇だろうからと購入しました。
簡単なあらすじを説明するとい
「男女4人がスキヤキする」という話です。
それだけ?
それだけです。
思うんですが、前田さんの作品はいつも「それだけ」です。
それだけなのに、面白いんです。
だから、すごいんです。
<簡単な流れ>
会社を辞めた無職の男が
大学時代の友人を10何年か振りに訪ねる。
ちなみにそいつは、未だにフリーター。
偶然目にした店頭の「スキヤキ専用鍋」に魅せられた男は
よく分かんないけど「みんなでスキヤキやろう」と言い出す。
で、2人だけじゃあれなんで、ということで
大学時代の元恋人に声をかけ、
更にその後輩の小悪魔的女子が加わる。
ぼろい車に乗った4人は、あてもなくドライブする。
読み進めていくと、
「大学時代の共通の友人が死んで
それをきっかけに疎遠になった」
ということが分かってくるのですが、
例によって、そいつが何で死んだかは明かされません。
死ぬまでに複雑な人間関係があった(誰と誰が好き同士で、誰と誰が付き合ってたとか)
ようなのですが、それも明らかにはされません。
それだけじゃありません。
・主人公が、何で会社辞めたのか
・その友人が、何でフリーターを続けてるのか
・女が、何で10年ぶりの元彼の誘いにのってきたのか
・小悪魔女子が、何で見知らぬ無職とフリーターの、さえない男達とのドライブにのってきたのか
なーんにも明らかにされません。
みんな孤独で、腹の底に何か抱えてるんですが、
それが何なのか明かされません。
前田さん。相変わらずです。
私達の前に提示されるのは「孤独の上澄み」だけです。
そんな4人が、ラストシーンでね。
ぼろい旅館の一室で、スキヤキをするんです。
こそこそ、隠れて。
「おー」なんて感じで。ちょっと盛り上がったりして。
それが微笑ましくて、また、切ないのです。
そこには、昔、親しかった友人と久しぶりに再会した時の
あの「空気感」が、ものすごくリアルに再現されています。
距離感があるところとか
それに気づかないような振りをするところとか
わざとらしく振る舞って、その距離を埋めようとするところとか
でも、埋まらない、というか、詰め切れないところとか。
「ほんっとうまいよなー」
ハワイのホテルの、無駄にふかふかなベッドの上で、うなってしまいました。
ちなみに、これ、もう映画化されているそうです。
しかも、主演の二人が、井浦新と窪塚洋介。
https://www.youtube.com/watch?v=O9_3Ju3Ded4
…すごいですよね。誰がこのキャスティングしたんでしょうか。
いや、だって、この二人って「ピンポン」の二人ですよ。
スマイルとペコですよ。11年ぶりの共演なんですよ。
それが、10何年振りに再会する友人役?
前田さん、すごい。
ますます尊敬します。
早速DVD頼んじゃいました。
できれば、映画館で観たかった―。
2015年2月19日木曜日
ハワイでも死ねる自信がある。
2/11~2/16までハワイに出かけてきました。
幼い子供と一緒だったこともあり、
特に観光するでもなく、何をするでもなく
街をぶらぶらして、ビーチで遊んで、
贅沢な時間の使い方をしてきました。
基本的に、英語がしゃべれないので
しゃべれる人におんぶにだっこなのですが
四六時中、一緒というわけにもいきません。
なわけで、つたない英語をつかって
ご飯を食べたり、買い物したり、
バスにのったり、散歩したり。
もちろん、不便もあります。
会計を分けてほしいってなんて言うんだ、とか。
ATMからお金を下ろすのどうやるんだろう、とか。
サンダルがNGのレストランは、スニーカーもダメなの、とか。
チップっていくら、どうやってあげればいいんだ、とか。
…つくづく「無力だなあ」と思いました。
クレジットカードとパスポートがなかったら、
英語がしゃべれないから、というのもありますけど、
それ以前に、根本的に、無力なんですね。
コミュニケーションが下手すぎて。
日本にいると、コミュニケーションって全然必要ないですから。
退化してるなあと実感しました。
3歳の息子は、そんな父親を後目に
「アロハ~!」「グッジョーブ!」
覚えたての英語を駆使しはじめます。…子供ってすごい。
よく海外旅行はいいよ、なんて聞きますが、
それまでは、私には何がいいんだかよく分かりませんでした。
でも、もしかしたら、そうやって
「自分は無力なんだ」と感じることが大事なのかもしれません。
「自分の思いを伝えるのはとても難しいことだ。
でも、それを怠ると死んでしまうから、頑張るしかない」
その真理はモノを書く上でもとても大切な心構えの一つだと思います。
幼い子供と一緒だったこともあり、
特に観光するでもなく、何をするでもなく
街をぶらぶらして、ビーチで遊んで、
贅沢な時間の使い方をしてきました。
基本的に、英語がしゃべれないので
しゃべれる人におんぶにだっこなのですが
四六時中、一緒というわけにもいきません。
なわけで、つたない英語をつかって
ご飯を食べたり、買い物したり、
バスにのったり、散歩したり。
もちろん、不便もあります。
会計を分けてほしいってなんて言うんだ、とか。
ATMからお金を下ろすのどうやるんだろう、とか。
サンダルがNGのレストランは、スニーカーもダメなの、とか。
チップっていくら、どうやってあげればいいんだ、とか。
…つくづく「無力だなあ」と思いました。
クレジットカードとパスポートがなかったら、
俺このまま死ぬかも、と思いました。
それ以前に、根本的に、無力なんですね。
コミュニケーションが下手すぎて。
日本にいると、コミュニケーションって全然必要ないですから。
退化してるなあと実感しました。
3歳の息子は、そんな父親を後目に
「アロハ~!」「グッジョーブ!」
覚えたての英語を駆使しはじめます。…子供ってすごい。
よく海外旅行はいいよ、なんて聞きますが、
それまでは、私には何がいいんだかよく分かりませんでした。
でも、もしかしたら、そうやって
「自分は無力なんだ」と感じることが大事なのかもしれません。
「自分の思いを伝えるのはとても難しいことだ。
でも、それを怠ると死んでしまうから、頑張るしかない」
その真理はモノを書く上でもとても大切な心構えの一つだと思います。
でも、やっぱり英語ぐらいしゃべれた方がいいな、とも思ったけど。
・・・勉強しようかなあ。
2015年2月10日火曜日
前田司郎さん『生きてるものはいないのか』を読む
作は前田司郎さん。
NHKドラマ「徒歩7分」の演出・脚本を手がけている方です。
「こんなすごいのを作る人が今まで無名だったはずがない」
と思い調べてみたとこら、やっぱり有名でした。
いくつか作品があったのですが、
その中でひときわ目をひいたのが
「生きてるものはいないのか」です。
これは戯曲で、前田さん自身の演出で舞台化もされており、
2007年に演劇界の芥川賞と呼ばれる
「岸田國士戯曲賞」を受賞しています。
あらすじだけ言うと、
「どんどん人が死んでいく」という話です。
そんだけ?という感じもしますが、
そんだけです。
ホラーでもなければ、サスペンスでもありません。
しいて言うなら、不条理劇です。でも、どこかコミカルです。
二股で女に責められている男、
赤ちゃんを下ろすか産むか悩んでいる女、
刑務所帰りに義理の妹に会いに来た男、
結婚式の披露宴の出し物に悩んでいる学生、
大学に通う現役のアイドル、同性愛者の男etc
劇には20名近くの色んな人が出てきます。
みんな、それぞれに思い悩んでいます。
大体はくだらないことですが、その人なりに、悩んでいます。
でも、何の前触れもなく、いきなりのたうち回って死にます。
死ぬ理由は「ウイルス」というだけで、詳しい説明はほぼありません。
普通のドラマなら、ここで「原因究明」→「解決」となるのですが、この劇は違います。
※「根っこ」を見せないというのは、前田さんの作品に共通しているのかもしれません
何だかよく分からない間に、ばたばた死んでいきます。
カッコよくもないし、華々しくもありません。
どちらかというと、みっともなく死んでいきます。
面白いなあと思ったのは、
「死んだ人が舞台に転がったまま」ということ
これ、よく考えてみたら、斬新ですよね。
実際には死んでないけど、死んでる体で、ずっと横たわるんですよ。
映画じゃなくて、演劇だからこその面白さだと思います。
もし、ライブの劇で見てたら…
僕なんかへそ曲がりだろうから、
「こいつ動かないかなあ」なんて死体役の人をじろじろ見てたかも。
結局、何が言いたかったのか、
劇中では明かされませんでした。
でも、とにかく面白かったです。
僕が思ったのは
・訳が分からず生きている人は、訳が分からないまま死んでいく。
・ほとんどの人間は、死んだように生きている。
・生きるということは、日々、死に向かっているということだ。
みたいなところでしょうか。
何より、タイトルがいいですよね。
『生きてるものはいないのか』
渋谷の雑踏で叫んだだけで、現代社会に波紋を呼びそうです。
NHKドラマ「徒歩7分」の演出・脚本を手がけている方です。
「こんなすごいのを作る人が今まで無名だったはずがない」
と思い調べてみたとこら、やっぱり有名でした。
いくつか作品があったのですが、
その中でひときわ目をひいたのが
「生きてるものはいないのか」です。
これは戯曲で、前田さん自身の演出で舞台化もされており、
2007年に演劇界の芥川賞と呼ばれる
「岸田國士戯曲賞」を受賞しています。
あらすじだけ言うと、
「どんどん人が死んでいく」という話です。
そんだけ?という感じもしますが、
そんだけです。
ホラーでもなければ、サスペンスでもありません。
しいて言うなら、不条理劇です。でも、どこかコミカルです。
二股で女に責められている男、
赤ちゃんを下ろすか産むか悩んでいる女、
刑務所帰りに義理の妹に会いに来た男、
結婚式の披露宴の出し物に悩んでいる学生、
大学に通う現役のアイドル、同性愛者の男etc
劇には20名近くの色んな人が出てきます。
みんな、それぞれに思い悩んでいます。
大体はくだらないことですが、その人なりに、悩んでいます。
でも、何の前触れもなく、いきなりのたうち回って死にます。
死ぬ理由は「ウイルス」というだけで、詳しい説明はほぼありません。
普通のドラマなら、ここで「原因究明」→「解決」となるのですが、この劇は違います。
※「根っこ」を見せないというのは、前田さんの作品に共通しているのかもしれません
何だかよく分からない間に、ばたばた死んでいきます。
カッコよくもないし、華々しくもありません。
どちらかというと、みっともなく死んでいきます。
面白いなあと思ったのは、
「死んだ人が舞台に転がったまま」ということ
これ、よく考えてみたら、斬新ですよね。
実際には死んでないけど、死んでる体で、ずっと横たわるんですよ。
映画じゃなくて、演劇だからこその面白さだと思います。
もし、ライブの劇で見てたら…
僕なんかへそ曲がりだろうから、
「こいつ動かないかなあ」なんて死体役の人をじろじろ見てたかも。
結局、何が言いたかったのか、
劇中では明かされませんでした。
でも、とにかく面白かったです。
僕が思ったのは
・訳が分からず生きている人は、訳が分からないまま死んでいく。
・ほとんどの人間は、死んだように生きている。
・生きるということは、日々、死に向かっているということだ。
みたいなところでしょうか。
何より、タイトルがいいですよね。
『生きてるものはいないのか』
渋谷の雑踏で叫んだだけで、現代社会に波紋を呼びそうです。
2015年2月6日金曜日
2015年2月5日木曜日
何度もいいますが、NHKドラマ「徒歩7分」が面白い(火曜午後11:15~11:45)
以前にも一度取り上げましたが、
NHKのドラマ「徒歩7分」がものすごい面白いです。
全8回で、先日までに5回まで放送されましたが
「なぜ面白いのか」
改めて、もう一度考えてみました。
◆バックボーンが一切提示されない
依子は引きこもりのストーカーです。
・なぜ、引きこもりになっているのか。
・なぜ、ストーカーになっているのか。
普通なら、「バックボーン(動機・理由)」に焦点が当てられ、
ドラマが進むにつれて、それが明らかになるはずなのですが
一向に明らかになる気配がありません。
依子に限らず、他の登場人物もみなそうです。
お節介な隣人も、依子を間違ってストーカーしていた男も
口の悪い妹も、コミュニケーション過多な階下の弁当屋も、
「なぜ、そういう人生を送っているのか」
バックボーンが一切提示されません。
シナリオとしてはかなり異質です。
シナリオはドラマを描くもので、そこには必ず、
人生を左右する決定的転換点(ターニングポイント)
というものが求められます。
分かりやすく言うなら、
「このキャラは、こうだから、こうなった」
「こうなったから、こうなる」
と見ている人に納得感をもってもらう必要があるわけです。
でも、考えてみれば、
実際の人生って、そういうわけにはいきませんよね。
誰もが自分のターニングポイントを知っているわけではないし、
何となく生きてきて、気づいていたら、こんな風になっている、みたいな。
それが現実です。
今、あなたの目の前に依子のような人がいたとして
「あなたはどうしてそうなったの」と聞いても、
たぶん、あいまいな答えを返してくるだけだと思います。
そもそも、あなただって、そこまで突っ込んだことを聞けませんよね。
他のドラマは、ドラマだから、どんどん突っ込んで聞いてますけど、
本来、トラウマなんて、怖くて聞けないはずなんです。
だから、ある意味、徒歩7分は
とても現実的なドラマだと言えます。
見ている側は
「どうして、この人はこうなったのか」
考えをめぐらせるしかありません。
だからこそ、もどかしくて、
だからこそ、リアリティがあるのだと思います。
次の放送日は2/10(火)。
「なぜ、こんなに面白いのか」
理由はきっとまだあるはずです。
まだまだ、考えてみたいと思います。
NHKのドラマ「徒歩7分」がものすごい面白いです。
全8回で、先日までに5回まで放送されましたが
「なぜ面白いのか」
改めて、もう一度考えてみました。
◆バックボーンが一切提示されない
依子は引きこもりのストーカーです。
・なぜ、引きこもりになっているのか。
・なぜ、ストーカーになっているのか。
普通なら、「バックボーン(動機・理由)」に焦点が当てられ、
ドラマが進むにつれて、それが明らかになるはずなのですが
一向に明らかになる気配がありません。
依子に限らず、他の登場人物もみなそうです。
お節介な隣人も、依子を間違ってストーカーしていた男も
口の悪い妹も、コミュニケーション過多な階下の弁当屋も、
「なぜ、そういう人生を送っているのか」
バックボーンが一切提示されません。
シナリオとしてはかなり異質です。
シナリオはドラマを描くもので、そこには必ず、
人生を左右する決定的転換点(ターニングポイント)
というものが求められます。
分かりやすく言うなら、
「このキャラは、こうだから、こうなった」
「こうなったから、こうなる」
と見ている人に納得感をもってもらう必要があるわけです。
でも、考えてみれば、
実際の人生って、そういうわけにはいきませんよね。
誰もが自分のターニングポイントを知っているわけではないし、
何となく生きてきて、気づいていたら、こんな風になっている、みたいな。
それが現実です。
今、あなたの目の前に依子のような人がいたとして
「あなたはどうしてそうなったの」と聞いても、
たぶん、あいまいな答えを返してくるだけだと思います。
そもそも、あなただって、そこまで突っ込んだことを聞けませんよね。
他のドラマは、ドラマだから、どんどん突っ込んで聞いてますけど、
本来、トラウマなんて、怖くて聞けないはずなんです。
だから、ある意味、徒歩7分は
とても現実的なドラマだと言えます。
見ている側は
「どうして、この人はこうなったのか」
考えをめぐらせるしかありません。
だからこそ、もどかしくて、
だからこそ、リアリティがあるのだと思います。
次の放送日は2/10(火)。
「なぜ、こんなに面白いのか」
理由はきっとまだあるはずです。
まだまだ、考えてみたいと思います。
2015年2月2日月曜日
「!」しない生活
携帯のメールしかり、
PCのメールやメッセージ全般に言えることですが、
「!」を使いすぎている気がしませんか?
というのも、↓を見ていて気づいたんです。
http://www.welluneednt.com/
これは村上春樹さんが読者からの質問・相談にお応えする
「村上さんのところ」というスペシャル企画です。
※1/31で申込みは終了しました。
毎日10~20位の質問に
村上さんがごく簡単に、でも丁寧に、
お返事をしたためているのですが、
その文章を見ていて、気づいたんです。
「!」がないってことに。
私は仕事柄、メールでやりとりする場合が多いのですが、
メールに必ず「!」を入れています。意図的に。時に無意識に。
「!」に意味なんてないじゃんとお思いかもしれないですが
「ありがとうございます。」
「ありがとうございます!」
字面だけ見ると、やっぱり印象値が違うんです。
後者の方が本当に感謝しているように見えるんですね(見えるだけなんですけど)。
多分、私自身、受け取り手としてそう思っているから
書き手としても「!」を乱発してしまうんでしょうが
村上さんのメールを見ていたら、
「!」な気分でもないのに「!」を使っている自分に
我ながら節操がないなあと。
時には、使いたくもないのに使ってる時もあるわけで。
何ででしょうね~。
別にいいじゃんそれぐらいって気もしますが。
そこまでして、気に入られたいんですかね。
実生活では、「!」することなんて、ほとんどないんですがね。
息子と一緒にいるときは、「!」ばっかりですけど。
PCのメールやメッセージ全般に言えることですが、
「!」を使いすぎている気がしませんか?
というのも、↓を見ていて気づいたんです。
http://www.welluneednt.com/
これは村上春樹さんが読者からの質問・相談にお応えする
「村上さんのところ」というスペシャル企画です。
※1/31で申込みは終了しました。
毎日10~20位の質問に
村上さんがごく簡単に、でも丁寧に、
お返事をしたためているのですが、
その文章を見ていて、気づいたんです。
「!」がないってことに。
私は仕事柄、メールでやりとりする場合が多いのですが、
メールに必ず「!」を入れています。意図的に。時に無意識に。
「!」に意味なんてないじゃんとお思いかもしれないですが
「ありがとうございます。」
「ありがとうございます!」
字面だけ見ると、やっぱり印象値が違うんです。
後者の方が本当に感謝しているように見えるんですね(見えるだけなんですけど)。
多分、私自身、受け取り手としてそう思っているから
書き手としても「!」を乱発してしまうんでしょうが
村上さんのメールを見ていたら、
「!」な気分でもないのに「!」を使っている自分に
我ながら節操がないなあと。
時には、使いたくもないのに使ってる時もあるわけで。
何ででしょうね~。
別にいいじゃんそれぐらいって気もしますが。
そこまでして、気に入られたいんですかね。
実生活では、「!」することなんて、ほとんどないんですがね。
息子と一緒にいるときは、「!」ばっかりですけど。
2015年1月30日金曜日
映画目録「ラリー・フリント」
<あらすじ>
ストリップのショーパブのオーナーを務めるラリー・フリント。店の会報誌としてヌード写真集「ハスラー」を作ったところ、大うけ。あれよあれよという間に億万長者になるが、ある日、猥褻容疑で逮捕されてしまい、全米から反社会的のレッテルを貼られる。挙句に何者かに撃たれて下半身不随になってしまう。しかし、反省・後悔することもなく、ますます攻撃的になるフリント。ついに弁護士からも見捨てられてしまい、最愛の妻もエイズになってしまう。
※実在のポルノ王と呼ばれる「ラリー・フリント」の半生を描いたそうです。
<多分ここが面白いところ>
・2時間の間にフリントの立場が、貧乏→大富豪→犯罪者→世の中のはみだしもの→表現の自由のシンボル→半身不随というように、ジェットコースターのように変化していきます。でも、当のフリントは何も変わっていないところが面白いです。基本的には一貫して「野蛮」です。主義も主張もへったくれもないんですね。陰部の撮影についても「撮ったらダメ」って言われたから撮ってやる、みたいな。基本的に「ダメ」と言われると、猛烈にやりたがるんです。著名な聖職者をパロってマザーファッカー呼ばわりしたり、裁判所に星条旗でできたオムツを履いて出廷したり、法廷で保釈金をぶちまけたり。「アマデウス」のモーツァルトしかり、「カッコーの巣の上で」のマクマーフィ―しかり、ミロス・フォアマンという監督は、こういう人が好きなんでしょうね。私も大好きです。
・そんなフリントの、唯一の泣き所が妻の「アリシア」です。フリント以上に自由で奔放。フリントが他の女と寝るように、アリシアも他の男と寝ちゃうんです。ついには薬物中毒、さらにエイズになって、社会的に孤立してしまうのですが、フリントはそれでも彼女を守るんです。大豪邸の一番厳重な部屋に、一緒に引きこもるわけです。そして壊れていくアリシアを少しでも楽しませようと、無茶くちゃやるんですね。私は「ラリー・フリント」という作品について、観る前は「自由への戦いのドラマだろう」と思っていましたが、観終わった今は、「自由への戦いを挑んだフリントとアリシアの純愛ドラマ」と思っています。
<印象的なシーン>
アリシアが死ぬシーンですね。フリントが本心で取り乱すのは、あそこぐらいじゃないでしょうか。水中を漂うアリシアも、美しく撮られていました。
ストリップのショーパブのオーナーを務めるラリー・フリント。店の会報誌としてヌード写真集「ハスラー」を作ったところ、大うけ。あれよあれよという間に億万長者になるが、ある日、猥褻容疑で逮捕されてしまい、全米から反社会的のレッテルを貼られる。挙句に何者かに撃たれて下半身不随になってしまう。しかし、反省・後悔することもなく、ますます攻撃的になるフリント。ついに弁護士からも見捨てられてしまい、最愛の妻もエイズになってしまう。
※実在のポルノ王と呼ばれる「ラリー・フリント」の半生を描いたそうです。
<多分ここが面白いところ>
・2時間の間にフリントの立場が、貧乏→大富豪→犯罪者→世の中のはみだしもの→表現の自由のシンボル→半身不随というように、ジェットコースターのように変化していきます。でも、当のフリントは何も変わっていないところが面白いです。基本的には一貫して「野蛮」です。主義も主張もへったくれもないんですね。陰部の撮影についても「撮ったらダメ」って言われたから撮ってやる、みたいな。基本的に「ダメ」と言われると、猛烈にやりたがるんです。著名な聖職者をパロってマザーファッカー呼ばわりしたり、裁判所に星条旗でできたオムツを履いて出廷したり、法廷で保釈金をぶちまけたり。「アマデウス」のモーツァルトしかり、「カッコーの巣の上で」のマクマーフィ―しかり、ミロス・フォアマンという監督は、こういう人が好きなんでしょうね。私も大好きです。
・そんなフリントの、唯一の泣き所が妻の「アリシア」です。フリント以上に自由で奔放。フリントが他の女と寝るように、アリシアも他の男と寝ちゃうんです。ついには薬物中毒、さらにエイズになって、社会的に孤立してしまうのですが、フリントはそれでも彼女を守るんです。大豪邸の一番厳重な部屋に、一緒に引きこもるわけです。そして壊れていくアリシアを少しでも楽しませようと、無茶くちゃやるんですね。私は「ラリー・フリント」という作品について、観る前は「自由への戦いのドラマだろう」と思っていましたが、観終わった今は、「自由への戦いを挑んだフリントとアリシアの純愛ドラマ」と思っています。
<印象的なシーン>
アリシアが死ぬシーンですね。フリントが本心で取り乱すのは、あそこぐらいじゃないでしょうか。水中を漂うアリシアも、美しく撮られていました。
2015年1月28日水曜日
映画目録「マイ・プライベート・アイダホ」
<あらすじ>
幼い頃に母親と生き別れた辛い過去を持つ少年 (リバー・フェニックス)。ナルコレプシーという奇病(突然眠りに誘われる病)を抱えながら、NYのブロンクスで体を売って、その日暮らしをしている。一方、金持ちの息子で、父親への反発心から、あえて男娼に身を落としている青年(キアヌ・リーブス)。二人はある日、勢い半分、ブロンクスを飛び出し、アイダホ、ロンドンへと、少年の母親を探す旅に出る。様々な経緯を経て、友情を育む二人だが、結局、母親は見つからない。ブロンクスに戻った二人は別々の道を歩き出す。
<多分ここが面白いところ>
・リバーフェニックスとキアヌリーブスが美しいです。二人でバイクに乗って疾走しているところなんか、もう、少女漫画やBLも真っ青の、ありえないくらいの美しさです。リバーフェニックスが年をとらずして急逝したことを差し引いても、刹那的な輝きがします。ディカプリオもバスケットボールダイアリーの頃、こんな感じでしたが、リバーフェニックスは、もっともっと繊細な感じがします。私見ですが、若い頃の武田真治もこんな感じでしたね。
・リバーフェニックスとキアヌリーブス、二人の対比が面白いです。一方は、やむにやまれず体を売っているのに、もう一方は、人生に必要な経験を得るための「手段」と割り切って体を売っている。一方は、親子の情愛に飢えているのに、もう一方は、不要なものだと切り捨てる。一方は人生を点でとらえ、もう一方は人生を線でとらえる。どっちも自分勝手なのですが、明確な基準点があるとすれば、「愛」に対するスタンスというところでしょうか。愛を信じている少年と、信じていない青年、みたいな。
・二人の結末も大きく異なります。善悪関係なしに、どちらも悲惨な末路です(キアヌが悲惨だということに気付いたのは僕が年をとったからなのかもしれません)。なので、教訓みたいなものは特に導けません。この作品は、価値観の大きく異なる二人の間にも、一瞬、刹那的にであるにしろ「友情(大きな意味で愛)」が成立した、という部分なのかなと思います。決してハッピーエンドではないのですが、余韻は悪くありませんでした。
<印象的なシーン>
最後ですね。よく分からない最後で、判断は観客に任せたのかなと。Webで調べたところ、ラストはお兄さんが助けたということになっているようです(未公開映像が出回っているとか)。私には分かりませんでした。またさらわれてひどい目にあわされるんだろうなと思ってしまいました。
幼い頃に母親と生き別れた辛い過去を持つ少年 (リバー・フェニックス)。ナルコレプシーという奇病(突然眠りに誘われる病)を抱えながら、NYのブロンクスで体を売って、その日暮らしをしている。一方、金持ちの息子で、父親への反発心から、あえて男娼に身を落としている青年(キアヌ・リーブス)。二人はある日、勢い半分、ブロンクスを飛び出し、アイダホ、ロンドンへと、少年の母親を探す旅に出る。様々な経緯を経て、友情を育む二人だが、結局、母親は見つからない。ブロンクスに戻った二人は別々の道を歩き出す。
<多分ここが面白いところ>
・リバーフェニックスとキアヌリーブスが美しいです。二人でバイクに乗って疾走しているところなんか、もう、少女漫画やBLも真っ青の、ありえないくらいの美しさです。リバーフェニックスが年をとらずして急逝したことを差し引いても、刹那的な輝きがします。ディカプリオもバスケットボールダイアリーの頃、こんな感じでしたが、リバーフェニックスは、もっともっと繊細な感じがします。私見ですが、若い頃の武田真治もこんな感じでしたね。
・リバーフェニックスとキアヌリーブス、二人の対比が面白いです。一方は、やむにやまれず体を売っているのに、もう一方は、人生に必要な経験を得るための「手段」と割り切って体を売っている。一方は、親子の情愛に飢えているのに、もう一方は、不要なものだと切り捨てる。一方は人生を点でとらえ、もう一方は人生を線でとらえる。どっちも自分勝手なのですが、明確な基準点があるとすれば、「愛」に対するスタンスというところでしょうか。愛を信じている少年と、信じていない青年、みたいな。
・二人の結末も大きく異なります。善悪関係なしに、どちらも悲惨な末路です(キアヌが悲惨だということに気付いたのは僕が年をとったからなのかもしれません)。なので、教訓みたいなものは特に導けません。この作品は、価値観の大きく異なる二人の間にも、一瞬、刹那的にであるにしろ「友情(大きな意味で愛)」が成立した、という部分なのかなと思います。決してハッピーエンドではないのですが、余韻は悪くありませんでした。
<印象的なシーン>
最後ですね。よく分からない最後で、判断は観客に任せたのかなと。Webで調べたところ、ラストはお兄さんが助けたということになっているようです(未公開映像が出回っているとか)。私には分かりませんでした。またさらわれてひどい目にあわされるんだろうなと思ってしまいました。
2015年1月23日金曜日
NHKドラマ「徒歩7分」が面白い(火曜午後11:15~11:45)
主人公は、32歳女性・依子(田中麗奈)。
仕事もない。彼氏もない。テレビもない。
基本、部屋の中でダラダラしている。
たまにやってくる妹にどうでもいい不満をぶつけ
たまに下の弁当屋に行って店員のくだらない話に付き合って
たまにずいぶん前に別れた彼氏の家をストーキングして。
かなり痛い女。
おそらく、引きこもりの主人公が
徐々に社会性を獲得する(関わりを広げる)、
その過程を描くドラマだと思うのですが、
今までのところ「今季最高」に面白いです。
特徴としては
・会話主体(まったく噛みあっていない・展開と無縁の意味のない話ばかり)
・テンポが遅い(撮影はアパートの徒歩7分圏内・基本長回し)
・ドラマチックなことが何も起こらない
でも、面白い。
何でだろ?
自分なりに考えてみました。
・噛みあわない会話・意味のない話が、コミュニケーション不全の現代社会っぽくて、逆にリアル
・テンポが遅いせいで、なんか、見入ってしまう。イライラするんだけど、なんか、気になっちゃう。
・ドラマ性がなさすぎて、この先どうなるのか、展開が全く読めない。
という感じでしょうか。
基本的に今のドラマは
・できるだけ伏線を貼りまくる
・カットを細かく割ってテンポをあげる
・冒頭から、これでもか、これでもかとドラマチックにする
なので『徒歩7分』はその真逆を行ってることになります。
どっちがいいとか悪いとか、そういうことではなく、
逆を行ってる分だけ、やっぱり見入ってしまうのかもしれません。
とりあえず3話で、
ようやく主人公に「一人は嫌だよ」
と本音を言わせることに成功しました。
この先、どうやって立ち直せるんでしょうか。
過程がものすごく気になります。
脚本は前田司郎さん(五反田団主宰)。
今まで知りませんでしたが、
芥川賞候補にもなった著名な方なのですね。
これは読まねば。うわ、同い年だ。
仕事もない。彼氏もない。テレビもない。
基本、部屋の中でダラダラしている。
たまにやってくる妹にどうでもいい不満をぶつけ
たまに下の弁当屋に行って店員のくだらない話に付き合って
たまにずいぶん前に別れた彼氏の家をストーキングして。
かなり痛い女。
おそらく、引きこもりの主人公が
徐々に社会性を獲得する(関わりを広げる)、
その過程を描くドラマだと思うのですが、
今までのところ「今季最高」に面白いです。
特徴としては
・会話主体(まったく噛みあっていない・展開と無縁の意味のない話ばかり)
・テンポが遅い(撮影はアパートの徒歩7分圏内・基本長回し)
・ドラマチックなことが何も起こらない
でも、面白い。
何でだろ?
自分なりに考えてみました。
・噛みあわない会話・意味のない話が、コミュニケーション不全の現代社会っぽくて、逆にリアル
・テンポが遅いせいで、なんか、見入ってしまう。イライラするんだけど、なんか、気になっちゃう。
・ドラマ性がなさすぎて、この先どうなるのか、展開が全く読めない。
という感じでしょうか。
基本的に今のドラマは
・できるだけ伏線を貼りまくる
・カットを細かく割ってテンポをあげる
・冒頭から、これでもか、これでもかとドラマチックにする
なので『徒歩7分』はその真逆を行ってることになります。
どっちがいいとか悪いとか、そういうことではなく、
逆を行ってる分だけ、やっぱり見入ってしまうのかもしれません。
とりあえず3話で、
ようやく主人公に「一人は嫌だよ」
と本音を言わせることに成功しました。
この先、どうやって立ち直せるんでしょうか。
過程がものすごく気になります。
脚本は前田司郎さん(五反田団主宰)。
今まで知りませんでしたが、
芥川賞候補にもなった著名な方なのですね。
これは読まねば。うわ、同い年だ。
2015年1月20日火曜日
映画目録「小説家を見つけたら」
<あらすじ>
NYのブロンクスで暮らす16歳の黒人少年。独学で小説を書くなど、実は学業の面で類まれな才能を持つが、エリートを嫌う友達の手前、ひた隠しに生きている。ある時、学力テストの結果を知った名門校から誘いを受ける。バスケと学業の両立を臨む少年は、悩んだ末、名門校へ移る。同時期に、ひょんなことから知り合った引きこもりの老人が、有名な文豪であることを知る。文章の書き方について教えを請う少年だが、老人から学び書いた文章が学校で「盗作」という疑いをかけられる。
<多分ここが面白いところ>
・会話で相手をやっつけることをトラッシュトークと言いますが、少年、老人ともに会話がいい。BMWを自慢する男に対して、少年が「BMWは、戦前は車ではなく航空機を作っていたんだ。エンブレムは青い空に回るプロペラ。自由の証。もちろん、それを知ってて買ったんだろ?」と言うシーンとか。
・バスケットボールのシーンですね。ガスヴァンサントが、バスケットボールをとったらこうなるんだ、という感じがして面白かったです。基本的にヨリなんですね。ほとんど俯瞰では撮らない。
・同様の仕事に就いている身として、老人のセリフが個人的に印象に残りました。「自分のために書いたものの方が、他人に見せるために書いたものより優る」「文章を書いている時の至福の一時を知っているか? 出来上がった文章の第1稿を見るときだ。批評家たちが、自分では一生なしえないようなことに対して、メッタ切りにする前にな」
<印象的なシーン>
老人が、真夜中の町を自転車で自由に走るシーン。手を軽くあげて、道路を走るシーンが「引きこもりからの卒業」を上手く言い表していました。「盗んだバイクで走り出す」と言う有名な歌詞がありますが、二輪車は「自由の象徴」というイメージがあるのかもしれません。ちなみに、このシーンは、おそらく「サニー(松本大洋)」という漫画のあるシーンの参考にも使われていると思います。気になった方はぜひ。
NYのブロンクスで暮らす16歳の黒人少年。独学で小説を書くなど、実は学業の面で類まれな才能を持つが、エリートを嫌う友達の手前、ひた隠しに生きている。ある時、学力テストの結果を知った名門校から誘いを受ける。バスケと学業の両立を臨む少年は、悩んだ末、名門校へ移る。同時期に、ひょんなことから知り合った引きこもりの老人が、有名な文豪であることを知る。文章の書き方について教えを請う少年だが、老人から学び書いた文章が学校で「盗作」という疑いをかけられる。
<多分ここが面白いところ>
・会話で相手をやっつけることをトラッシュトークと言いますが、少年、老人ともに会話がいい。BMWを自慢する男に対して、少年が「BMWは、戦前は車ではなく航空機を作っていたんだ。エンブレムは青い空に回るプロペラ。自由の証。もちろん、それを知ってて買ったんだろ?」と言うシーンとか。
・バスケットボールのシーンですね。ガスヴァンサントが、バスケットボールをとったらこうなるんだ、という感じがして面白かったです。基本的にヨリなんですね。ほとんど俯瞰では撮らない。
・同様の仕事に就いている身として、老人のセリフが個人的に印象に残りました。「自分のために書いたものの方が、他人に見せるために書いたものより優る」「文章を書いている時の至福の一時を知っているか? 出来上がった文章の第1稿を見るときだ。批評家たちが、自分では一生なしえないようなことに対して、メッタ切りにする前にな」
<印象的なシーン>
老人が、真夜中の町を自転車で自由に走るシーン。手を軽くあげて、道路を走るシーンが「引きこもりからの卒業」を上手く言い表していました。「盗んだバイクで走り出す」と言う有名な歌詞がありますが、二輪車は「自由の象徴」というイメージがあるのかもしれません。ちなみに、このシーンは、おそらく「サニー(松本大洋)」という漫画のあるシーンの参考にも使われていると思います。気になった方はぜひ。
2015年1月16日金曜日
2015年1月15日木曜日
映画目録「永遠の僕たち」
<あらすじ>
両親を自動車事故で一瞬にして失った少年。両親の死を上手く受け入れられず、無気力な毎日を送る。挙句に、他人の葬式に遺族の振りをしてもぐりこむ始末。ある時、脳腫瘍のため余命いくばくかの少女と知り合う。「死」という共通因子によって、徐々に惹かれあい、つかの間のデートを楽しむ二人。そんな少年を心配そうに見守る特攻隊員の幽霊。二人は「生きる喜び」を知ることで、逆に、それを失う事、別れ、「死」と向き合わざるを得なくなる。
<多分ここが面白いところ>
・大まかにくくれば、「命(生死)を軽んじている少年・少女が、互いへの愛(思いやり)によって、畏敬の念を取り戻していく」という話なのだが、その「軽んじてる」感じが、たとえば、「葬儀ごっこ」「お辞儀の振り」「切腹の真似事」「死体置き場でデート」「ハロウィンはゾンビでコスプレ」「死んだふり(演技)」など、細かい描写でよく描かれている。
・一番感じ入ったのは、やっぱり最初と最後の違い。冒頭の葬儀場のシーンでは、少年は黒い喪服をまとって悲しむ振りをしているけれど、悼む心がちっともない(カタチだけで内面が伴わない)。それに対して、ラストシーンでは、服はカジュアルで、しかも笑顔だけど、心から少女の死を悼んでいる(カタチよりも内面の充実)。起承転結の「起」「結」が見事に結ばれている。すごい。
・加瀬亮さんが演じる特攻隊員の幽霊が、抜群に存在感があります。お辞儀を説いたり、原爆をからかわれて凹んだり、死を虚無だという少年を殴り飛ばしたり…。幽霊の癖に、妙に普通っぽい。最後の遺書の独白は、おそらく、本物の遺書をベースにしているのだと思います。『私はバンザイではなく、君の名を叫んで死んでいく』。すごく感動しました。
<印象的なシーン>
やはり、遺書の独白のシーンではないでしょうか。独白の内容もさることながら、二人がデートした思い出の場所、葬儀場、公園などがフラッシュバックして、しかも、雪に埋もれていくわけです。挙句、道路に横たって二人で描いた「死体発見」のチョークも風で舞い散る。これがガスヴァンサントの思い描く「死」なんですね。少年が恐怖するような虚無ではない。でも、ゆっくり、じっくりと風化していく。いい意味でも悪い意味でも。だからこそ、少女との思い出を振り返り笑って偲ぶラストシーンが、切なく、そして温かく感じられました。
両親を自動車事故で一瞬にして失った少年。両親の死を上手く受け入れられず、無気力な毎日を送る。挙句に、他人の葬式に遺族の振りをしてもぐりこむ始末。ある時、脳腫瘍のため余命いくばくかの少女と知り合う。「死」という共通因子によって、徐々に惹かれあい、つかの間のデートを楽しむ二人。そんな少年を心配そうに見守る特攻隊員の幽霊。二人は「生きる喜び」を知ることで、逆に、それを失う事、別れ、「死」と向き合わざるを得なくなる。
<多分ここが面白いところ>
・大まかにくくれば、「命(生死)を軽んじている少年・少女が、互いへの愛(思いやり)によって、畏敬の念を取り戻していく」という話なのだが、その「軽んじてる」感じが、たとえば、「葬儀ごっこ」「お辞儀の振り」「切腹の真似事」「死体置き場でデート」「ハロウィンはゾンビでコスプレ」「死んだふり(演技)」など、細かい描写でよく描かれている。
・一番感じ入ったのは、やっぱり最初と最後の違い。冒頭の葬儀場のシーンでは、少年は黒い喪服をまとって悲しむ振りをしているけれど、悼む心がちっともない(カタチだけで内面が伴わない)。それに対して、ラストシーンでは、服はカジュアルで、しかも笑顔だけど、心から少女の死を悼んでいる(カタチよりも内面の充実)。起承転結の「起」「結」が見事に結ばれている。すごい。
・加瀬亮さんが演じる特攻隊員の幽霊が、抜群に存在感があります。お辞儀を説いたり、原爆をからかわれて凹んだり、死を虚無だという少年を殴り飛ばしたり…。幽霊の癖に、妙に普通っぽい。最後の遺書の独白は、おそらく、本物の遺書をベースにしているのだと思います。『私はバンザイではなく、君の名を叫んで死んでいく』。すごく感動しました。
<印象的なシーン>
やはり、遺書の独白のシーンではないでしょうか。独白の内容もさることながら、二人がデートした思い出の場所、葬儀場、公園などがフラッシュバックして、しかも、雪に埋もれていくわけです。挙句、道路に横たって二人で描いた「死体発見」のチョークも風で舞い散る。これがガスヴァンサントの思い描く「死」なんですね。少年が恐怖するような虚無ではない。でも、ゆっくり、じっくりと風化していく。いい意味でも悪い意味でも。だからこそ、少女との思い出を振り返り笑って偲ぶラストシーンが、切なく、そして温かく感じられました。
2015年1月9日金曜日
フライパンで頭を叩かれるような気づき「新・戦争論」より
1万円札を作るのに必要な原価は22円。1万円札が1万円の価値を持つのは、みんなが「この紙切れには1万円の価値がある」と信じているからに他ならない。
コンクール初受賞
あけましておめでとうございます。
私事ですが(そもそもブログなんて私事しかありませんが)
先日、「シナリオS1グランプリ」というコンクールで
準グランプリを獲得しました。
http://scenario.co.jp/?p=8679
「One Wor(l)d」というタイトルの
求人広告の制作を舞台にしたドラマです(1時間もの)。
映像化の予定はありませんが、
月刊シナリオ2015年1月号という雑誌に、
シナリオが全文掲載されています。
※インタビューつき
コピーライター時代にも
作った広告を何度か取り上げられたことがあるのですが、
あの時は、クライアントありきでモノを作る、という立場でした。
その点、今回は、クライアントがいないので、
「ここはクライアントがこうしろと言った」
という言い訳がききません。
全て、自分がいいと思ったものです。
その分、かなり恥ずかしく、また恐ろしいものがあります。
「こいつ、こんなこと考えてんだ」
「こういう見方していたんだな」みたいな。
しかも、以前関わった業界・仕事のことを取り上げているだけに…。
まあ、しょうがありませんよね。
シナリオライターというのは、
自分の内面をさらけだしていくのが仕事ですし。
今後とも、誤解や偏見を恐れず、
ガシガシ書いていきます。
できることなら、この本を見て、
「おー、おもろい新人が出てきたな。
いっちょ。仕事をお願いしちゃおうかな」
という方がいらっしゃいますように。
私事ですが(そもそもブログなんて私事しかありませんが)
先日、「シナリオS1グランプリ」というコンクールで
準グランプリを獲得しました。
http://scenario.co.jp/?p=8679
「One Wor(l)d」というタイトルの
求人広告の制作を舞台にしたドラマです(1時間もの)。
映像化の予定はありませんが、
月刊シナリオ2015年1月号という雑誌に、
シナリオが全文掲載されています。
※インタビューつき
コピーライター時代にも
作った広告を何度か取り上げられたことがあるのですが、
あの時は、クライアントありきでモノを作る、という立場でした。
その点、今回は、クライアントがいないので、
「ここはクライアントがこうしろと言った」
という言い訳がききません。
全て、自分がいいと思ったものです。
その分、かなり恥ずかしく、また恐ろしいものがあります。
「こいつ、こんなこと考えてんだ」
「こういう見方していたんだな」みたいな。
しかも、以前関わった業界・仕事のことを取り上げているだけに…。
まあ、しょうがありませんよね。
シナリオライターというのは、
自分の内面をさらけだしていくのが仕事ですし。
今後とも、誤解や偏見を恐れず、
ガシガシ書いていきます。
できることなら、この本を見て、
「おー、おもろい新人が出てきたな。
いっちょ。仕事をお願いしちゃおうかな」
という方がいらっしゃいますように。
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