<あらすじ>
1962年のカリフォルニア。高校卒業を迎え、それぞれの道を歩き出そうとしている十代の少年少女の「最後の一夜」を描いた青春群像劇。「謎の美女を探して街をさまよう秀才カート」「自立心旺盛だが遠距離恋愛を巡って恋人と諍いをする秀才テリー」「友達の車を借りてナンパに出かけるびびりのスティーブ」「小学生の子守をする羽目になるマッチョな走り屋ミルナー」など。個性豊かなキャラクターが、どこにでもあるようなことに一喜一憂する、それぞれの「一夜」が描かれています。
※ジョージルーカス監督の長編第二作。これでヒットしたお金を使って、後の「スター・ウォーズ」を製作したそうです。
<多分ここが面白いところ>
・一見すると、複数の登場人物のドラマが、何の脈絡もなく、並列に描かれているように見えます、注意深く見て見ると、ある「共通項」でくくることができます。それは「夢・希望(誇示したいこと)」があるに、そのすべてが「目論見から外れてしまっている」ということ。
○カート→謎の美女と会いたい→会えない
○テリー→街を飛び出して夢を追い求める→街から出られない
○スティーブ→女をぶいぶい言わせる→きゃんきゃん言わされる
○ミルナー→走りなら誰にも負けない→負ける
つまり「思うようにいかない」という点で共通しているので。でも、それが青春ですよね。その辺りが、とてもうまく描かれていて、共感できるし、とてもリアルに感じられました。
・舞台である1962年ならではの車・ダンス・音楽などがふんだんに用いられています。それがとてもオシャレです。特に車。あの頃、アメリカでは、こんな車がたくさん走っていたんだなって。いい時代だったのかどうかは分かりませんが、ある種の人にはとても懐かしく感じられたのではないでしょうか。
<印象的なシーン>
登場人物達の冒険を端的に描いたシーンです。たとえば、秀才カートがギャングにいい格好したくて警察車両に罠をしかけたり、優等生のテリーが教師に向かって「一昨日きやがれ」みたいに捨て台詞を吐いたり、びびりのスティーブが女のためにウイスキーを何とか手に入れようと酒店の外でウロウロしたり、走り屋のミルナーが子守をしていた少女と二人で隣の車に整髪料でいたずらしたり。それぞれの登場人物が、「自分」の枠を超えて、「自分」を表現しているように思えて、好感が持てました。まさしく「グラフィティ(落書き)」です。
2015年3月31日火曜日
2015年3月20日金曜日
映画目録「夫婦善哉(めおとぜんざい)」
<あらすじ>
舞台は昭和初期。大問屋の若旦那と芸者が、かけおちするところからドラマは始まる。その仲を何とか周囲に認めさせたい若旦那だが、癇癪を起した父親から勘当されてしまう。不憫に思った芸者は「わたいがあんたを一人前の男にしたる」と必死で気張るが、若旦那は「いつか実家に戻れる」と楽天的で一向に働く様子がない。そのうち、妹の婿養子に実家を牛耳られてしまうが、それでも未練たらたら。自立しようと色々商売に手を出すが、ことごとく上手くいかない。やがて腎臓病まで病むように。そんな若旦那を時に罵り、時におだて、時にひっぱたき、かいがいしく支える続ける芸者。そんな内縁の夫婦生活を丁寧に描いた描いた作品です。
<多分ここが面白いところ>
・何事にも楽観的で、調子だけよくて、いざとなると何もできない気弱な若旦那。真面目で自立心も旺盛だが、いざとなると無鉄砲な気の強い芸者。夫婦の対比されたキャラクターが抜群です。大阪弁もイキイキしていて、二人のやりとりを見ているだけでも十分面白いです。シナリオセンターで教科書的に扱われ、「一度は見ておくべき」と言われているのも納得です。作られたのは昭和30年(1955年)と言いますが、時代を経ても全く色あせていません。
・若旦那のダメっぷりですね。妻子ある身で女とかけおちして、実家を追い出された後も「金をよこせ」とせびりにいき、番頭相手に「俺が店を継いだらお前を大番頭にしてやる」と幅をきかせ、身を寄せた芸者の両親の実家を「小汚い家だ」とののしり、芸者が働いている間は寝ていて、夜になると芸者がコツコツ貯めた金で飲みに出かける。まったくどうしようもない奴です。ドラマの過程で「捨てた娘への愛情に気づく」「芸者への感謝・謝罪の念を覚える」などターニングポイントもいくつか用意されているのですが、それでも一向に、立ち直らない。作り手のご都合主義に走らないダメっぷりが、見ている側にはリアルで、秀逸です。
<印象的なシーン>
芸者が若旦那を、叩いたり、引っ張ったり、蹴ったりするシーンが多々見受けられます。これが、コミカルでとても面白いです。映画としては重苦しい・単調な題材なのに、これだけコミカルで面白いのは、このシーンのおかげだと思います。でも、昭和初期にこういう男女関係ってあったのでしょうか。もしあったとしたら、男女関係って、今も昔もあんまり変わってないんですね。いつの時代も、女性は強いものです。
舞台は昭和初期。大問屋の若旦那と芸者が、かけおちするところからドラマは始まる。その仲を何とか周囲に認めさせたい若旦那だが、癇癪を起した父親から勘当されてしまう。不憫に思った芸者は「わたいがあんたを一人前の男にしたる」と必死で気張るが、若旦那は「いつか実家に戻れる」と楽天的で一向に働く様子がない。そのうち、妹の婿養子に実家を牛耳られてしまうが、それでも未練たらたら。自立しようと色々商売に手を出すが、ことごとく上手くいかない。やがて腎臓病まで病むように。そんな若旦那を時に罵り、時におだて、時にひっぱたき、かいがいしく支える続ける芸者。そんな内縁の夫婦生活を丁寧に描いた描いた作品です。
<多分ここが面白いところ>
・何事にも楽観的で、調子だけよくて、いざとなると何もできない気弱な若旦那。真面目で自立心も旺盛だが、いざとなると無鉄砲な気の強い芸者。夫婦の対比されたキャラクターが抜群です。大阪弁もイキイキしていて、二人のやりとりを見ているだけでも十分面白いです。シナリオセンターで教科書的に扱われ、「一度は見ておくべき」と言われているのも納得です。作られたのは昭和30年(1955年)と言いますが、時代を経ても全く色あせていません。
・若旦那のダメっぷりですね。妻子ある身で女とかけおちして、実家を追い出された後も「金をよこせ」とせびりにいき、番頭相手に「俺が店を継いだらお前を大番頭にしてやる」と幅をきかせ、身を寄せた芸者の両親の実家を「小汚い家だ」とののしり、芸者が働いている間は寝ていて、夜になると芸者がコツコツ貯めた金で飲みに出かける。まったくどうしようもない奴です。ドラマの過程で「捨てた娘への愛情に気づく」「芸者への感謝・謝罪の念を覚える」などターニングポイントもいくつか用意されているのですが、それでも一向に、立ち直らない。作り手のご都合主義に走らないダメっぷりが、見ている側にはリアルで、秀逸です。
<印象的なシーン>
芸者が若旦那を、叩いたり、引っ張ったり、蹴ったりするシーンが多々見受けられます。これが、コミカルでとても面白いです。映画としては重苦しい・単調な題材なのに、これだけコミカルで面白いのは、このシーンのおかげだと思います。でも、昭和初期にこういう男女関係ってあったのでしょうか。もしあったとしたら、男女関係って、今も昔もあんまり変わってないんですね。いつの時代も、女性は強いものです。
2015年3月11日水曜日
映画目録「マン・オブ・ザ・ムーン」
<あらすじ>
子供の頃から、人を驚かせ、楽しませるのが好きなアンディ・カウフマン。TVの人気番組への出演をきっかけに一気に人気コメディアンの仲間入りを果たすが、マンネリを嫌うアンディは演出家の意見を無視して、独創的なパフォーマンスばかり。周囲の反対・諫言にも「面白ければそれでいい」と一切耳を貸さない。あげくに「世界無性別級チャンピオン」を名乗り、女性相手に金をかけてプロレスまでやりはじめる始末。ある時、アンディは末期の肺がんを宣告され悲嘆にくれるが、周囲は「また嘘を言って」と誰も信用してくれない。
※ 35歳でこの世を去った伝説のコメディアン・アンディ・カウフマンの生涯を描いた作品です。監督は「アマデウス」「ラリー・フリント」のミロス・フォアマンです。
<多分ここが面白いところ>
・冒頭5分のシーン。アンディが「自分の人生を編集したら、何にも残らなかった」と言うシーン。最初は、何が何なのかさっぱり分からないのですが、映像をすべて見終わった後、思い出すに、おそらく「多くのパフォーマンスが放送上カットされてきた」という事実を皮肉っているのだと思います。
・アンディが思う「楽しさ」と世間一般の「楽しさ」のズレが面白いです。たとえば、TVの収録映像に手を加え、見ている人に「TVが壊れた?」と思わせるように仕向けたり、ライブで「華麗なるギャッツビー」の全編を朗読してみたり。前衛的すぎて周囲には全く理解されないのですが、それでもアンディは楽しそうです。今なら「シュール」で片付けられるのですが、30年も前のことですからね。頭がおかしいと思われたんだろうなー。今見てもよく分からないですし。
・アンディが別キャラとして演じている「トニー・クリフトン」が面白いです。客や共演者をいじり倒して、悪く言う、毒蝮三太夫みたいなキャラクターなのですが、とにかく、口が悪い。でも、見ているとやっぱり、スカっとするんですよね。何ででしょう? 我々はそんなに抑圧的な毎日を送っており、心のどこかで常にトニーのような振る舞いに憧れているという事でしょうか。
<印象的なシーン>
末期の病に冒されたアンディは、藁にもすがる思いで、フィリピンの怪しげな名医を訪ねます。メスを使わずに体の悪いところを抜き取る、みたいな。しかし、そこで目にしたのは、嘘っぱちの手品でした。それまでヨガなど東洋医学を信じてきたアンディですが、偽医者の行いを目にして、思わず笑います。騙されたと怒るのでもなく、悲しむのでもなく、笑うのです。「どんな状況下でも、面白いことが優先される」というアンディの生き様が、はっきりと表れている、いいシーンだったと思います。
子供の頃から、人を驚かせ、楽しませるのが好きなアンディ・カウフマン。TVの人気番組への出演をきっかけに一気に人気コメディアンの仲間入りを果たすが、マンネリを嫌うアンディは演出家の意見を無視して、独創的なパフォーマンスばかり。周囲の反対・諫言にも「面白ければそれでいい」と一切耳を貸さない。あげくに「世界無性別級チャンピオン」を名乗り、女性相手に金をかけてプロレスまでやりはじめる始末。ある時、アンディは末期の肺がんを宣告され悲嘆にくれるが、周囲は「また嘘を言って」と誰も信用してくれない。
※ 35歳でこの世を去った伝説のコメディアン・アンディ・カウフマンの生涯を描いた作品です。監督は「アマデウス」「ラリー・フリント」のミロス・フォアマンです。
<多分ここが面白いところ>
・冒頭5分のシーン。アンディが「自分の人生を編集したら、何にも残らなかった」と言うシーン。最初は、何が何なのかさっぱり分からないのですが、映像をすべて見終わった後、思い出すに、おそらく「多くのパフォーマンスが放送上カットされてきた」という事実を皮肉っているのだと思います。
・アンディが思う「楽しさ」と世間一般の「楽しさ」のズレが面白いです。たとえば、TVの収録映像に手を加え、見ている人に「TVが壊れた?」と思わせるように仕向けたり、ライブで「華麗なるギャッツビー」の全編を朗読してみたり。前衛的すぎて周囲には全く理解されないのですが、それでもアンディは楽しそうです。今なら「シュール」で片付けられるのですが、30年も前のことですからね。頭がおかしいと思われたんだろうなー。今見てもよく分からないですし。
・アンディが別キャラとして演じている「トニー・クリフトン」が面白いです。客や共演者をいじり倒して、悪く言う、毒蝮三太夫みたいなキャラクターなのですが、とにかく、口が悪い。でも、見ているとやっぱり、スカっとするんですよね。何ででしょう? 我々はそんなに抑圧的な毎日を送っており、心のどこかで常にトニーのような振る舞いに憧れているという事でしょうか。
<印象的なシーン>
末期の病に冒されたアンディは、藁にもすがる思いで、フィリピンの怪しげな名医を訪ねます。メスを使わずに体の悪いところを抜き取る、みたいな。しかし、そこで目にしたのは、嘘っぱちの手品でした。それまでヨガなど東洋医学を信じてきたアンディですが、偽医者の行いを目にして、思わず笑います。騙されたと怒るのでもなく、悲しむのでもなく、笑うのです。「どんな状況下でも、面白いことが優先される」というアンディの生き様が、はっきりと表れている、いいシーンだったと思います。
2015年3月9日月曜日
ドラマ「ミタライ」が残念すぎる。ファン無念
3/7(土)21:00~
『天才探偵ミタライ~難解事件ファイル「傘を折る女」~』
というドラマが放映されました。
これは、島田荘司さん原作の小説「御手洗潔」シリーズの、
ファン待望のドラマ化です。
これまでどれだけTV局からオファーを受けようが
「日本人なんかに御手洗は任せられない」と断固拒否していた島田さんですが、
たぶん、お年を召して、考え方が変わったんでしょうね。
最近では漫画化も果たしました。
映画化・ドラマ化も時間の問題と言われていましたし。
主演は
・御手洗潔→玉木宏さん
・石岡君→堂本光一さんです。
※玉木さんは、島田さんたっての希望だそうです。
私の希望としては
・御手洗潔→伊勢谷友介(イケメンで知的で野性味がある人がいいです)
・石岡君→坂口憲二or海老蔵(マッチョで一途な感じの人がいいです))
をイメージしていたのですが。
断っておきますが、私は“御手洗潔の大ファン”です。
中学生の時に初めて「異邦の騎士」を呼んで以来、20年以上。
もちろん、作品はすべて目を通しています。
だから、言う権利があるとまでは言いませんが(笑)
せいぜいドラマを見ながら
「ここはもうちょっとこうしてほしい」
「いや、ここはこうだよ!」
なんて、やいのやいの言いながら楽しもうと思っていたのです。
思っていたのですが……演出・脚本がひどすぎて、
途中でそれさえもやめてしまいました。
●“御手洗潔”の魅力が全く描かれていない
ドラマを一緒に見ていた妻に途中で
「ミタライって何か感じ悪いね」と言われました。
「何で?」
「だって、無口で、無愛想で、女嫌いじゃん」
…いやいやいやいやいや、ちょっと待って下さい。
そんなの、御手洗の表面的な特徴でしょ。
たとえば、無口なのは、喋るのが面倒だからでしょ。
喋るのが面倒なのは、会話・状況を先読みできるからでしょ。
それぐらい、御手洗は頭がよすぎるの。そういうことなの。
それに
・無口じゃないよ、饒舌だよ(人をからかう時のお喋りはすごいんだから)
・無愛想だけど、意外に優しいんだ(数字錠の話なんか、泣けるよ)
・女嫌いな分、犬が好きなんだ。犬を死ぬほど愛してるんだ面白いだろ。
…何で私が弁解しなきゃいけないんでしょうか。
でも、何も知らない妻が見て、そう思うんだから、
世間一般の人はミタライのことを
「感じ悪い」「とっつきにくい」そう思ったんでしょうね。
中には「ガリレオの二番煎じ」と思った人もいるかもしれません。
残念です。これだけ魅力のある人なのに…。
にしても、悔やむべきはお粗末な演出・脚本です。
ここまでくると、役者さんのせいではありません。
「脚本の人、何やってんだろうな」
途中から、御手洗のファンではなく、作り手の視点で見てしまいました。
以下、気づいたところです。
●動きがなさすぎる
確かに、御手洗は頭だけを働かせる「安楽椅子探偵」ですが
それはあくまで小説の話。映像のあるドラマでは
会話だけで推理を追うのは無理があります。何より、退屈すぎます。
御手洗はバイクに乗れるし、喧嘩も強い。
スーパーマンぐらいの設定で、いいはずなのに・・・。
●余計なキャラに余計な時間を使いすぎている
ドラマに出てくるキャラクターには、2つの意味があると思います。
1つには「主人公のキャラを際立たせるための役どころ」
もう1つは「そのキャラそのものが魅力的」
結論から言うと、刑事2名はどちらの意味でも必要なかったと思います。
彼らがいてもいなくても、事件には大差なかったのではないでしょうか。
残念です。彼らに割いていた時間があったら、
御手洗というキャラクターを掘り下げて描くべきだったと思います。
●そもそも、この題材を選ぶべきではなかった
なぜ「傘を折る女」を選んだのでしょう。これはそもそも短編です。
いくら膨らませるにしても、2時間にするには無理があります。
また、既に終わってしまったことを後から暴き出すという話であり
絵的にも、冒険活劇にもなりにくいという問題があります。
同じ短編でも「山高帽のイカロス」とか「ある騎士の物語」とか
「数字錠」とか「UFO大通り」とか他に、もっとあったと思います。
いくつかを組み合わせるとか…できたはずなのに。なぜ、これを。。。
●石岡君を語り手にすべきだった
御手洗シリーズは、シャーロックホームズと同じく、
「パートナーが語り手となる」という形をとっています。
つまり、石岡君がワトソンの役割を果たすわけです。
愛情あるフィルタリングのおかげで、
読んでいる側(見ている側)も安心して、物語に没頭できるのです。
私は、今回のドラマも、石岡君のナレーションを入れるなりして
その形をとるべきだったと思います。
そうすれば、御手洗の紹介もかなり容易にできたはずです。
そうすれば、古い事件も、回顧録として使えたはずです。
何より、石岡君の視点で、安心して見ていられたはずです。
…あげだしたら、きりがなくなってきました。
とにかく、とてもとても残念です。それしかありません。
島田さんも「これでOK」と言ったのでしょうか。
むしろ「これでいけ」とでも言ったのでしょうか。
そう考えると、ますます残念でなりません。
追記:
http://kodanshabunko.com/mitarai.html
記事が出ていました。
やはり、島田さんがほぼすべてを決めていたようですね。
島田さんに言われたら、そうせざるを得ないでしょうね。
現場ももどかしかったと思います。合掌。
『天才探偵ミタライ~難解事件ファイル「傘を折る女」~』
というドラマが放映されました。
これは、島田荘司さん原作の小説「御手洗潔」シリーズの、
ファン待望のドラマ化です。
これまでどれだけTV局からオファーを受けようが
「日本人なんかに御手洗は任せられない」と断固拒否していた島田さんですが、
たぶん、お年を召して、考え方が変わったんでしょうね。
最近では漫画化も果たしました。
映画化・ドラマ化も時間の問題と言われていましたし。
主演は
・御手洗潔→玉木宏さん
・石岡君→堂本光一さんです。
※玉木さんは、島田さんたっての希望だそうです。
・御手洗潔→伊勢谷友介(イケメンで知的で野性味がある人がいいです)
・石岡君→坂口憲二or海老蔵(マッチョで一途な感じの人がいいです))
をイメージしていたのですが。
断っておきますが、私は“御手洗潔の大ファン”です。
中学生の時に初めて「異邦の騎士」を呼んで以来、20年以上。
もちろん、作品はすべて目を通しています。
だから、言う権利があるとまでは言いませんが(笑)
せいぜいドラマを見ながら
「ここはもうちょっとこうしてほしい」
「いや、ここはこうだよ!」
なんて、やいのやいの言いながら楽しもうと思っていたのです。
思っていたのですが……演出・脚本がひどすぎて、
途中でそれさえもやめてしまいました。
●“御手洗潔”の魅力が全く描かれていない
ドラマを一緒に見ていた妻に途中で
「ミタライって何か感じ悪いね」と言われました。
「何で?」
「だって、無口で、無愛想で、女嫌いじゃん」
…いやいやいやいやいや、ちょっと待って下さい。
そんなの、御手洗の表面的な特徴でしょ。
たとえば、無口なのは、喋るのが面倒だからでしょ。
喋るのが面倒なのは、会話・状況を先読みできるからでしょ。
それぐらい、御手洗は頭がよすぎるの。そういうことなの。
それに
・無口じゃないよ、饒舌だよ(人をからかう時のお喋りはすごいんだから)
・無愛想だけど、意外に優しいんだ(数字錠の話なんか、泣けるよ)
・女嫌いな分、犬が好きなんだ。犬を死ぬほど愛してるんだ面白いだろ。
…何で私が弁解しなきゃいけないんでしょうか。
でも、何も知らない妻が見て、そう思うんだから、
世間一般の人はミタライのことを
「感じ悪い」「とっつきにくい」そう思ったんでしょうね。
中には「ガリレオの二番煎じ」と思った人もいるかもしれません。
残念です。これだけ魅力のある人なのに…。
にしても、悔やむべきはお粗末な演出・脚本です。
ここまでくると、役者さんのせいではありません。
「脚本の人、何やってんだろうな」
途中から、御手洗のファンではなく、作り手の視点で見てしまいました。
以下、気づいたところです。
●動きがなさすぎる
確かに、御手洗は頭だけを働かせる「安楽椅子探偵」ですが
それはあくまで小説の話。映像のあるドラマでは
会話だけで推理を追うのは無理があります。何より、退屈すぎます。
御手洗はバイクに乗れるし、喧嘩も強い。
スーパーマンぐらいの設定で、いいはずなのに・・・。
●余計なキャラに余計な時間を使いすぎている
ドラマに出てくるキャラクターには、2つの意味があると思います。
1つには「主人公のキャラを際立たせるための役どころ」
もう1つは「そのキャラそのものが魅力的」
結論から言うと、刑事2名はどちらの意味でも必要なかったと思います。
彼らがいてもいなくても、事件には大差なかったのではないでしょうか。
残念です。彼らに割いていた時間があったら、
御手洗というキャラクターを掘り下げて描くべきだったと思います。
●そもそも、この題材を選ぶべきではなかった
なぜ「傘を折る女」を選んだのでしょう。これはそもそも短編です。
いくら膨らませるにしても、2時間にするには無理があります。
また、既に終わってしまったことを後から暴き出すという話であり
絵的にも、冒険活劇にもなりにくいという問題があります。
同じ短編でも「山高帽のイカロス」とか「ある騎士の物語」とか
「数字錠」とか「UFO大通り」とか他に、もっとあったと思います。
いくつかを組み合わせるとか…できたはずなのに。なぜ、これを。。。
●石岡君を語り手にすべきだった
御手洗シリーズは、シャーロックホームズと同じく、
「パートナーが語り手となる」という形をとっています。
つまり、石岡君がワトソンの役割を果たすわけです。
愛情あるフィルタリングのおかげで、
読んでいる側(見ている側)も安心して、物語に没頭できるのです。
私は、今回のドラマも、石岡君のナレーションを入れるなりして
その形をとるべきだったと思います。
そうすれば、御手洗の紹介もかなり容易にできたはずです。
そうすれば、古い事件も、回顧録として使えたはずです。
何より、石岡君の視点で、安心して見ていられたはずです。
…あげだしたら、きりがなくなってきました。
とにかく、とてもとても残念です。それしかありません。
島田さんも「これでOK」と言ったのでしょうか。
むしろ「これでいけ」とでも言ったのでしょうか。
そう考えると、ますます残念でなりません。
追記:
http://kodanshabunko.com/mitarai.html
記事が出ていました。
やはり、島田さんがほぼすべてを決めていたようですね。
島田さんに言われたら、そうせざるを得ないでしょうね。
現場ももどかしかったと思います。合掌。
映画目録「灼熱の魂」
<あらすじ>
いるはずのない「兄と父を探せ」という不可解な遺言を残して亡くなる母親。戸惑いつつも、母の故郷レバノンに出かけ、その過去を探りはじめる双子の姉弟。徐々に、宗教紛争に巻き込まれ、過酷な運命に翻弄された母親の姿が明らかになっていく。
<多分ここが面白いところ>
・結末だけ取り上げるなら、およそ救いようのない話です。これを「ヒューマン映画」として真正面から作っていたら、多分、陰惨・悲惨すぎて物語になりえなかったと思います。ドゥニ・ビルヌーブ監督は、主軸を少しずらして、これをサスペンス映画に仕立てました。観客は、子どもの視点になって「母親が抱えた秘密」を一緒に探し、そして、それが明かされた時、子どもと一緒になってショックを受ける、そういうスリリングな体験が可能です。重たい映画なのに楽しめるように作っている。その手法に脱帽です。
・映画はレバノン内戦を題材にした話です。おそらく、民族、宗教など複雑な要因があって、血で血を争う殺し合いが行われたのだと思いますが、それらについて語られることは一切ありません。ちょっとは説明があっても…と序盤は思っていたのですが、そのうち、どうでもよくなりました。要するに「憎しみに憎しみで対抗しようとした結果、ひどいことになる。肝心なのは許すことなのだ」ということが分かればいいのだと思います。これは戦争を描いた映画ではないので。余分なものは極限まで切り落とす。勉強になります。
・母親がなぜ、「兄と父を探せ」と言ったのか。その謎はラスト10分で明かされます。本当に、キレイに、スカっと(内容は陰惨ですが)明かされます。しかも、サスペンスだけで終わらず、メッセージ性もきちんとした形で伝えられます(肝心なのは許すこと)。『プリズナーズ』の時も、風呂敷たたむの上手いなあと思いましたが、今回も改めて実感しました。
<印象的なシーン>
プールの使い方が絶妙です。出生の秘密を知った双子の姉弟が、プールで体を小さく丸めて潜っているシーンとか(生前の胎児としてのモチーフ)、一心不乱に泳ぐシーンとか(必死で運命に逆らおうとしている姿のモチーフ)。演出だけでなく、「母親がなぜプールで自我を崩壊したのか」最後のラストシーンで「なるほど」とうならされました。「プール」という柱を選んだのはすごいです。
いるはずのない「兄と父を探せ」という不可解な遺言を残して亡くなる母親。戸惑いつつも、母の故郷レバノンに出かけ、その過去を探りはじめる双子の姉弟。徐々に、宗教紛争に巻き込まれ、過酷な運命に翻弄された母親の姿が明らかになっていく。
<多分ここが面白いところ>
・結末だけ取り上げるなら、およそ救いようのない話です。これを「ヒューマン映画」として真正面から作っていたら、多分、陰惨・悲惨すぎて物語になりえなかったと思います。ドゥニ・ビルヌーブ監督は、主軸を少しずらして、これをサスペンス映画に仕立てました。観客は、子どもの視点になって「母親が抱えた秘密」を一緒に探し、そして、それが明かされた時、子どもと一緒になってショックを受ける、そういうスリリングな体験が可能です。重たい映画なのに楽しめるように作っている。その手法に脱帽です。
・映画はレバノン内戦を題材にした話です。おそらく、民族、宗教など複雑な要因があって、血で血を争う殺し合いが行われたのだと思いますが、それらについて語られることは一切ありません。ちょっとは説明があっても…と序盤は思っていたのですが、そのうち、どうでもよくなりました。要するに「憎しみに憎しみで対抗しようとした結果、ひどいことになる。肝心なのは許すことなのだ」ということが分かればいいのだと思います。これは戦争を描いた映画ではないので。余分なものは極限まで切り落とす。勉強になります。
・母親がなぜ、「兄と父を探せ」と言ったのか。その謎はラスト10分で明かされます。本当に、キレイに、スカっと(内容は陰惨ですが)明かされます。しかも、サスペンスだけで終わらず、メッセージ性もきちんとした形で伝えられます(肝心なのは許すこと)。『プリズナーズ』の時も、風呂敷たたむの上手いなあと思いましたが、今回も改めて実感しました。
<印象的なシーン>
プールの使い方が絶妙です。出生の秘密を知った双子の姉弟が、プールで体を小さく丸めて潜っているシーンとか(生前の胎児としてのモチーフ)、一心不乱に泳ぐシーンとか(必死で運命に逆らおうとしている姿のモチーフ)。演出だけでなく、「母親がなぜプールで自我を崩壊したのか」最後のラストシーンで「なるほど」とうならされました。「プール」という柱を選んだのはすごいです。
登録:
投稿 (Atom)