2015年6月26日金曜日

映画目録「横道世之介」

<あらすじ>
大学進学のために、長崎から上京してきた一人の若者(横道世之介)。勧誘を断りきれずにサンバサークルに入ってしまう「極度のお人好し」と思えば、クーラー目当てで親しくもない友人の部屋に入り浸る「図々しさ」を持ち合わせた、どこか憎めない性格。世之介を中心に、夢や希望など大それたものはないけれど、人生を必死で生きようとする若者達の姿を描いた青春ストーリー。1987年当時と、20年後の世界を生きる、かつての友人・知人達が世之介を思い返しながら、ストーリーは進行していく。
※監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一さん。脚本は前田司郎さんと共同執筆
※原作は吉田修一さんの小説「横道世之介」

<多分ここが面白いところ>
・afterではなく、beforであるところ
映画は、過去と未来をいったりきたりします。それは世之介の死を境にしたbeforとafterの世界であると同時に「人生を選び取った瞬間」から見てbeforとafterという作りになっています。beforの世界では、登場人物達は悪戦苦闘しながらも、それぞれが世之介との出会いを通じて、自分の人生を選び取るまでが描かれています。たとえば、子供ができた倉持は、大学をやめて、パパになることを選びます。ゲイであることをカミングアウトした加藤は、その道を受け入れます。千春は娼婦をやめて、まっとうに生きることを選びます。親の庇護に甘えていた祥子は、海外青年協力隊の道を選びます。具体的に何をどうやって選び取ったのかは描かれていませんが、afterで、選び取った人生を必死で生きている姿が描かれています。世の中には「夢をもち、それを叶えるまでの物語(after)」はたくさんありますが、このように「夢を(人生を選ぶ)持つまでの物語(befor)」はとても珍しく、その作り方もとても面白いと思います。「選ぶ」ということの尊さや大切さが、ひしひしと伝わってきました。
・きっかけを作っているのが「世之介」だということ
登場人物達が、人生を選び取る瞬間には、世之介が介在しています。たとえば、子供ができた責任感から大学を辞め、社会人になるという決断を下した倉持の場合。不安に押しつぶされそうな倉持を、世之介は「俺にできることがあったら何でもいってくれ」と励まします。「じゃあ、金」「いいよ」「……嘘だよ(笑)」「いいって、別に俺、金使わねえし」という感じです。たとえば、加藤の場合。自分がゲイであることをカミングアウトするのですが(おそらく人生初)、世之介はスイカを食べながら、あっけらかんとして「だから何だよ」と答えます。これらは、彼らのその後の人生を左右する瞬間なのですが、だからといって、力強く勇気づける見せ場的なシーンではなく、本当に何気ない会話として描かれています。そこが、素晴らしいと思いました。現実社会でも人生を変える瞬間って、概ね、こういうものだと思います。

<印象的なシーン>
世之介が夜中のコインランドリーで、一人サンバを踊るところです。グルグル回る洗濯物は、おそらく、翻弄される人生・無力な自分を暗諭していると思います。その中で「行動すること・選び取ること」の大切を本能的に察した青年が、突然サンバを踊り出す。アクションとして、ふさわしい行為だと思いました。青春とは甘く・ほろ苦いと言いますが、いつの時代も、その瞬間を生きる若者にとっては、辛く、過酷なものです。世之介が夜中のコインランドリーで我を忘れてサンバを踊る姿に、私もあの時代を思い出して、泣きそうになりました。

2015年6月10日水曜日

映画目録「複製された男」

<あらすじ>
大学で講師を務めるアダム。大学と家を往復して、たまに恋人とセックスするだけの単調な日常に嫌気がさしている。そんなある日、偶然目にした映画の中に、自分と瓜二つの男アンソニーを見つける。興味を持ったアダムは、アンソニーの周囲を調べ、居所を突き止める。実は2人は顔、声、生年月日、更には体にできた傷痕まで一致していた。初めは面白半分だったアダムだが、徐々に恐怖を覚え始める。やがて、アダムの恋人やアンソニーの妻をも巻き込み、とんでもない事態に。
※監督は「プリズナーズ」「灼熱の魂」などを手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ

<多分ここが面白いところ>
・公式サイトのキャッチコピー
 「脳力が試される、究極の心理ミステリー あなたは一度で見抜けるか―」
・私は、こういうことを全く意識せず観たせいもあり、
 何も分からないまま終わってしまいました。
 後で、映画通の友人から「実はこういうことなんだよ」と説明を受けて
 「なるほどーそういえば…」と思った口です。あしからず。
・ネタを明かせば、アダムとアンソニーは人格が違うだけで、同じ人間です。
 古い言い方をすれば「二重人格」というところでしょうか。 
 アダム=浮気している自分 アンソニー=妻と子供を愛している自分
 アダム=平凡な大学講師  アンソニー=華やかな俳優業
・「浮気している時は、妻が恋しくなり、
  妻と一緒にいる時は、愛人が恋しくなる」
 「会社にいれば、家に帰りたくなり、家にいたら、会社に行きたくなる」
 みなさんも日常生活でも、身勝手すぎる矛盾って感じたことありませんか?
 それと同じように、この男は
 アダムでいるときは、アンソニーになりたいと思い、
 アンソニーでいるときは、アダムになりたいと思う。
 それが高じた結果、分裂した人格になってしまったわけですね。
・この映画は、これを違う人間としてその日常を
 「切り取り」「つなぎ合わせた」ことが新しいのだと思います。
 ドゥニ・ヴィルヌーヴは、こういった仕掛けが好きだし、本当に上手いですね。

<印象的なシーン>
アダムがアンソニーに電話をかけてきて、
それを「誰から?」と奥さんが怪しむシーンがあります。
「あなた浮気してるんじゃないの」って。
初めて観ている時は、何とも思わなかったし、
正直、「奥さんうざい」ぐらい思っていたのですが、
真相を知って、思い返してみると、
何とも奥さんが可哀想で可哀想で…。
実際、浮気相手からの電話で、本当に浮気をしていたんですよね。
それを必死こいて言い繕っていたんですよ、あれは。
うーん。物事の見方って、ちょっとしたことでこんなに変わるんですね。