2015年11月25日水曜日

TBSの深夜枠ドラマ「おかしの家」が面白い。水曜・午後11:53

舞台は東京下町のさびれた駄菓子屋。
おばあちゃんに代わって、店を切り盛りする太郎(オダギリジョー)のもとに、元同級生の無職 (勝地)や、後輩のニート、先輩のつぶれかけた風呂屋などが集ってきては、駄菓子を食べながら「今の世の中これでいいのか?」「俺たちにできることはないのか?」みたいなことを語り合う。


舞台の大半は、駄菓子屋の裏庭です。
ドラマチックなことはほとんどありません。
でも、すごく楽しいです。
たった30分ですが、ほのぼのするし、
切なくなるし、やりきれなくもなるし、
感動するし、考えさせられるし…
ものすごく、奥が深いというか。


「この駄菓子屋はいずれ確実につぶれる でもこの駄菓子屋は無意味で無駄なものだとどうしても思えないのだ」
ドラマは毎回、冒頭のオダギリジョーのモノローグからはじまります。
この言葉通り、太郎達のコミカルな主張や日常を、面白おかしくとらえつつも、ドラマは最終的には「人生に、無意味で無駄なものなんかない」ということを常に言い続けています。


駄菓子屋にも、
駄菓子屋の裏庭にも、
子供時代にも、
ニートの過ごす時間にも、
世間から見たら非効率的で非生産的だと思われる物の中にも、
大切なものはある。


っていうことを、


現代社会のスピードや厳しさについていけず
取り残されてしまった人たちが、訴えるわけです。


セリフと演出が本当にうまくて、私なんか、
毎回毎回、見終わって「ほお」って感じです。
※監督は、「舟を編む」で日本アカデミーを獲得した石井裕也監督。さすが。


特に私が感動したのは
藤原竜也さんがIT社長として登場した回。


<<確かこんな話です>>
いつものように駄菓子屋の裏庭で
くだらない話をしている太郎達。
かつての同級生が年収1億円のIT社長になったことを知る。
「こんなところでくすぶっている俺たちなんか
上から目線でバカにされるのでは?」と不安な太郎達だったが、
現れた同級生はそんな素振りもみせず、
「立ち止まって考えるのは大切だ」
「俺もお前たちみたいにしたい」
むしろ、太郎達の自由をうらやむ。
思い出話に花が咲き、意気投合する太郎達。
飲みに出かけたお店で、太郎は元同級生に、
「会社の人に」と、照れ臭そうに駄菓子をプレゼントする。
元同級生は、そのお返しに、自身が経営するレストランに招待する。
当日、めかしこんだ太郎達はレストランへ出かける。
出迎える元同級生。すごく幸せそう。
後日、太郎は、元同級生が脱税の容疑で逮捕されたことを知る。


プロットに起こすと、こんなもんです。
こんなもんですが、すごく面白いです。


時代の流れに取り残された人
時代の流れにあらがう人
時代の流れに乗った人


世の中、色んな人がいます。
それぞれに人生があって、それぞれの選択があります。
このドラマが面白いのは
誰がいいとか、誰が悪いとかではなく、
むしろ、みんな辛く・苦しいと言っているところです。


特にこの回では、藤原竜也さん演じる元同級生の
「苦しくて苦しくて、走るのをやめたい、でも立ち止まれない」
そういう現代社会を生きる人たちの苦悩を
しっかり(でもあざとくない)描いているところに好感を持ちました。
※私見ですが、今の世の中は、みんな「このままじゃダメ」と思っているのに
 誰もとめられない、流れを変えられない、壊れかけた世の中に見えます。


太郎から駄菓子をプレゼントされたIT社長は
どんな気持ちであれを受け取ったんでしょうね。
あのシーンだけで、色んなものが見えたような気がしました。


現在第5話。
あと少しですが
楽しみに見守っていきたいです。

2015年11月18日水曜日

映画目録「NO」


<あらすじ>
舞台は1988年当時の南米チリ。当時、独裁を強いていたピノチェト政権に対し、国際世論が介入。ピノチェト政権のYESかNOかを問う、国民投票が実施されることになり、各陣営で投票前の1ヶ月間、テレビCMを放送することに。本当は「NO」だけど、長年自由を奪われてきた国民たちは「どうせ何をやっても無駄だ」とあきらめムード。「YES」派の圧倒的有利が囁かれる中、一人の若き広告マン、レネ(ガエルガルシアベルナル)が「NO」を掲げ、敢然と立ち上がる。※実際に起こった出来事をモチーフにした映画です。

<多分ここが面白いところ>
NO陣営のCMは当初、ピノチェト政権のこれまでの悪行を訴え、正義や秩序の回復を訴えるものでした。しかし、レネは「これでは人は動かない」と反対。ロゴを虹を用いたカラフルなものにしたり、テーマソングを作ったり…コカコーラのCMのような「明るく・楽しい」CMを提案します。長年、暗殺、拷問など不当な人権侵害に苦しんでいた人々は「分かってない」「軽すぎる」猛反対。でも、レネはあきらめません。自分なりのやり方で、徐々に周囲を巻き込んでいきます。
伊坂幸太郎の小説に「悪に立ち向かうのは、正義じゃない、勇気だ」というセリフがありますが、この映画にも似たようなものを感じました。どれだけ正しかったとしても、人は正義だけでは動いてくれないんですね。コカコーラのようなCMがいいのか悪いのかはさておき、「悪に立ち向かう勇気」だけでなく、「常識にとらわれない勇気」が相まって、徐々に世論を動かしていく、というのがとても面白く感じられました。私が、広告畑の人間ということもあるでしょうが。


<印象的なシーン>
ラストシーンですね。国民投票で多数派となったNO派は、見事、ピノチェトを引きずり下ろすことに成功します。周囲が狂喜乱舞する中、レネはほとんど喜びを示しません。「終わった」みたいな感じで。ただ、町に出て、みんなが嬉しそうにしているのを見て、微笑みます。それで、映画は終わりです。もっと盛り上がってもいいんじゃん?という意見もあるようですが、私は、これを見て、この映画がどういうものなのか、分かったような気がしました。
というのも、映画を見て、ずっと疑問に思っていたんです。なぜ、レネは「NO」キャンペーンに力を貸したのか。自由のため? 国民のため? 未来のため? 自分のため? 独裁政権に刃向うわけですから、当然、リスクを伴います。事実、付け回されたり、嫌がらせの電話を受けたりします。それでも、レネは一歩も引きません。なぜなのか? 断片的な情報として、「妻が活動家であり、始終、権力者に立てついては痛めつけられていること」「妻は家を出て、他の男と暮らしていること(レネはまだ彼女が好きっぽい)」「レネは上司の広告マンとライバル関係にあり、YES陣営に加わった上司に負けたくないと思っている」などが明らかになっていますが、直接的な動機には結びつかないような気がしました。
本来、こういった主人公の心の動きは「ドラマの核」となるはず……それが一切語られないというのは、作り手が「あえてそうしたから」だと思います。これはあくまで推論なのですが、レネは、政治的活動としてNOキャンペーンに加わったのではなく、あくまでも一人の広告マンとして「NO派の広告を作った」のではないでしょうか。ただ依頼された仕事を、成功に導くために、最善を尽くした。そう考えると、いまいち盛り上がりに欠けたラストシーンに納得がいきます。私もイチ広告の作り手として、こういう態度って、よく分かるんですよね。営業とかはヤッター!ワーイ!みたいになるんですけど、こっちとしては「無事にいってよかった」それだけなんです。でも、お客様のところにいって、実際に喜んでいる姿を見ると、なんかほっこりするというか、実感がわくというか。つまるところ、NOという映画は、「正義によりかからない」アイデアで切り拓く」「常識を恐れない」、広告としてのあるべき姿を示した作品だったんじゃないかなと思います。