<あらすじ>
イーニドとレベッカは幼馴染み。何かに熱中する人を「あいつはバカ」「こいつはクズ」とこきおろし、十代の多感な時を無為に過ごしてきた。高校卒業後、家を出て、二人で一緒に暮らす計画を立てるが、仕事を見つけて社会になじんでいくレベッカに対し、イーニドはつまらないことで揉めて仕事を首になるなど、一向に進歩がない。レベッカとも徐々に疎遠になり、寂しさを覚えるイーニドは、ある日、レコードコレクターのさえない中年男性と知り合い、はみ出し者同士、徐々に惹かれあっていく。
<多分ここが面白いところ>
・淡々と孤独を描いているところ
十代は誰にとっても、多かれ少なかれ孤独なものです。「どうして誰もわかってくれないんだ」とか「みんな死ね」とか「自分だけは特別だ」とか。暴力とか、いじめとか、ドラッグとか、そういうツールを使って描くのは割と簡単ですが、本作ではそういうのを一切使わないで、正面から「孤独」を描いています。親友がいるけど、別に心の友ってわけじゃなくて、単に暇を潰す仲にすぎなくて、でも、いないよりはマシで、とりえあずキープって感じなんだけど、いざいなくなってみるとやっぱり寂しくて、周りを見回してみたら私なんていてもいなくても関係ない、誰も必要としていないのに気付いて、だったら、誰も自分を知らない、ここじゃないどこかに行きたくなった…みたいな。書いていると鬱々としてきますが、この作品はそういう暗さも特にありません。共感も同情もしない代わりに、批判も評価も一切なし。淡々と進んでいきます。その「淡々さ」にむしろリアリティを感じました。
・意味のない会話に意味があるところ
といっても別に伏線になっているとか、そういうわけじゃありません。たとえば、イーニドとレベッカの間で「やる」という表現がよく出てきます。「あいつと超やりたい」とか「やらなすぎてストレスたまってきた」とか「とりあえずやる」とか「すげーやりたい」とか。よく聞いてみると分かるのですが、二人の会話はこのように、ほぼ会話になっていません。そもそも趣味も全然合ってないし。それでも会話になってしまうのが十代のリアルなのかもしれませんが、私は、その裏に「親友面した軽薄な関係」というのも見え隠れしたような気がしました。実際、二人は高校を卒業したら疎遠になっていったわけですし(私も若い頃にこういう関係が多々ありました)。作品を作ろうとした場合、話を早く前に進ませたくて、「打てば響くような会話」を作りがちですが、本作のように「キャッチボールになっていないぶつ切りの会話」も、そこに意味があるなら、ありだなと思いました。
<印象的なシーン>
映画は「世の中の一切を小馬鹿にして、興味を持たないイーニドが、なぜか、来ないバスを待っているボケ老人に心を惹かれる」という設定なのですが、それはもちろん、「現実からの逃避」を意味します。空想レベルではなく、「物理的に逃げ出したい」ということなのだと思います。ラストシーンでは、絶望したイーニドの前に、来るはずのなかったバスがきます。そして、イーニドはバスに乗ってどこかへ去っていきます。「自立」なのか「自殺」なのか、結論は特にありません。すっきりしないけど、私は、こういう映画なら、結末は観る人に委ねる、というのもありかなと思いました。
2015年9月25日金曜日
2015年9月3日木曜日
映画目録「プロミス・ランド」
<あらすじ>
石油に代わる、次世代のエネルギーとして期待される「シェールガス」。その開発用地を仕入れるために、ペンシルヴァニアの田舎町にやってきた主人公。いつものように住人達を「足の下に金が埋まってる。それを掘り出して、人生を変えるんだ」と口説き落としていくが、ある時から「シェールガスは環境破壊を伴う」という反対運動に合い、交渉がうまく進まなくなる。住人達からはそっぽを向かれ、意中の女性からも距離を置かれ、次第に、仕事への信念や情熱が揺るがされていく主人公。名誉回復のために、地元みんなで盛り上がれるお祭りを企画するが…
<多分ここが面白いところ>
・善悪の境界線を設けてないところ
「農村部の貧困」「環境破壊」を描いたドラマはたくさんありますが、この映画は、開発会社のエリート社員を主人公にしている時点で、面白いと思いました。一般的に「開発会社=悪者」となりがちですが、この映画は、悪者が特に見当たりません。みんな、自分の生活や夢や希望があって、それなりに葛藤を抱えながら生きています。そのドラマが、きちんと描けていたのが好感を持てました。
・日々の営みに対する考え方のギャップ
この映画は、主人公と、それを取り巻く人々との間にある“ギャップ”が大きなテーマになっています。それは、色んなシチュエーションで細かく表現されていますが、具体的・明確に「これ」と表現されることはありません。私が思うに、それは『何気ない日々の営み』に対するとらえ方なんじゃないかと思います。よく、女の人で、付き合っている男の人に、悩みや不安を愚痴る人、いますよね。で、男が「じゃあこうしたら」って解決策を提示すると、「そんなこと聞いてるわけじゃない」みたいな。別に、解決してほしいわけじゃないんですよね。自分の人生を共有したいというか、何というか。主人公はいい奴なんだけど、こういった日々の小さな営みに、まったく理解がないんですね。むしろ「解決策を提示してるのに、何で怒るんだ?」と思っちゃう。私も似たようなところがあって若い頃はずいぶん苦しめられたので、主人公の気持ちになってみてしまいました。
<印象的なシーン>
主人公が一人、酒場で酒を飲んでいるとき、反対派の住人が絡んできます。「てめえも農家出身なんだろ? こんなことして恥ずかしくねえのか!?」みたいな感じで。そん時、主人公が言い返すんですよね。「あんたらが手に入れるのは、はした金じゃない。人生を変える、ぶっ飛ばし金なんだ。子供を大学に行かせられない? ぶっとばせよ。銀行に金が返せない? そんなのぶっとばせ」と。これを聞いた住人達は、怒ります。でも、主人公は、なぜ彼らが怒るのか理解できません。主人公と住人達の間にある、埋めがたい溝(人生に対する考え方の差)を、うまく表現していたと思います。
2015年7月1日水曜日
映画目録「「リリィ・シュシュのすべて」
<あらすじ>
夏休みを境に、いじめられっ子になってしまった中学生・蓮見。万引きを強要されたり、みんなの前で自慰行為を強制されたり、同級生の売春の手伝いをさせられたり、憧れの女生徒をレイプされてしまったり、いじめは徐々に苛烈さを増していく。唯一の心のよりどころは、伝説の歌姫「リリィ」の歌を聴くこと。リリィのファンサイトで、リリィの素晴らしさを語り合う事。ある時、蓮見はファンサイトで知り合った人と、ライブ会場で会う約束をして出かけて行く。そこで事件が起こる。
<多分ここが面白いところ>
・加害者と被害者、二人とも同じ歌を愛している
いじめられっ子の蓮見と、いじめっ子の星野は、夏休み前までは友達でした。家に泊まりにいったり、旅行に行くくほどの仲でした。そして、二人とも「リリィ」が好きでした。考えてみれば当たり前のことですが、どんな人間にも好きな歌ぐらいあります。殺人犯もテロリストも、歌ぐらい聞きます。加害者も被害者も、同じ歌を口ずさみながら、人を傷つけたり、傷つけられたりしているわけです。これは人間は立場は異なっても、善悪を越えて、同じ「孤独・絶望を抱えている」ということを端的に表していると思います。同時に「安全地帯などどこにもない」「いつやられるか分からない」「やらなければやられる」という過酷な状況におかれた中学生達の厳しい現実を上手く表現していると思います。
・ハンドルネームという匿名性が上手く使われている
全編を通じて、ネットへの書き込みが画面を支配しています。「フィリア」「青猫」などのハンドルネームが使われており、おそらく、劇中の中学生の誰かがあてはまるのだと思いますが、誰が誰なのかよく分かりません。もちろん、意図的な伏線で、これがラストシーン(ライブ会場)での蓮見の凶行につながっていくのですが、匿名性を上手く利用した作りになっています。
・みんな幼い、そして初々しい!
主人公の蓮見を演じるのは市原隼人さん(当時13歳)。敵役の星野を演じるのは忍成修吾さん。そして、ヒロインには、蒼井優さんと伊藤歩さん。。今見返してみると、豪華な顔ぶれですね。もちろん当時は無名で、全員、オーディションで合格したそうです。おそらく岩井監督の目論見なのでしょうが、「演じている」という感じはほとんどありません。ただ、そこにいる、そこにいて起こったことに反応している、という感じです。それがこの年代の少年少女らしく、新鮮に感じられました。
<印象的なシーン>
劇中には、津田詩織と久野陽子、二人のヒロインが登場します。その対比がとても明確に描かれており、印象に残りました。
津田詩織は、星野に弱みを握られ、中年男性を相手に売春を強要されています。男がみんな客に見えてきて、同級生から告白されても、素直に喜ぶこともできません。蓮見に「デブになったら売春なんてしなくて済むかな」と嘆くのですが、そこまでやる覚悟はありません。何となく、流されるように生きています。
一方、蓮見の憧れの同級生・久野陽子は、とても強い女性として描かれています。才色兼備故に同性から嫉妬され、いじめを受けていますが、物怖じすることもありません。同じく優等生でありながら脱落した星野にとって、その「眩しさ」は許せるものではありません。ある時、星野の指示により、レイプされてしまいます。しかし、久野は怯むことなく、その翌日、頭を丸坊主にして学校に登校してきます。この「丸坊主具合」がすごいのです。自分でバリカンで剃ったのが明らかなのです(カツラではなく、本当に剃ったそうです)。
夏休みを境に、いじめられっ子になってしまった中学生・蓮見。万引きを強要されたり、みんなの前で自慰行為を強制されたり、同級生の売春の手伝いをさせられたり、憧れの女生徒をレイプされてしまったり、いじめは徐々に苛烈さを増していく。唯一の心のよりどころは、伝説の歌姫「リリィ」の歌を聴くこと。リリィのファンサイトで、リリィの素晴らしさを語り合う事。ある時、蓮見はファンサイトで知り合った人と、ライブ会場で会う約束をして出かけて行く。そこで事件が起こる。
<多分ここが面白いところ>
・加害者と被害者、二人とも同じ歌を愛している
いじめられっ子の蓮見と、いじめっ子の星野は、夏休み前までは友達でした。家に泊まりにいったり、旅行に行くくほどの仲でした。そして、二人とも「リリィ」が好きでした。考えてみれば当たり前のことですが、どんな人間にも好きな歌ぐらいあります。殺人犯もテロリストも、歌ぐらい聞きます。加害者も被害者も、同じ歌を口ずさみながら、人を傷つけたり、傷つけられたりしているわけです。これは人間は立場は異なっても、善悪を越えて、同じ「孤独・絶望を抱えている」ということを端的に表していると思います。同時に「安全地帯などどこにもない」「いつやられるか分からない」「やらなければやられる」という過酷な状況におかれた中学生達の厳しい現実を上手く表現していると思います。
・ハンドルネームという匿名性が上手く使われている
全編を通じて、ネットへの書き込みが画面を支配しています。「フィリア」「青猫」などのハンドルネームが使われており、おそらく、劇中の中学生の誰かがあてはまるのだと思いますが、誰が誰なのかよく分かりません。もちろん、意図的な伏線で、これがラストシーン(ライブ会場)での蓮見の凶行につながっていくのですが、匿名性を上手く利用した作りになっています。
・みんな幼い、そして初々しい!
主人公の蓮見を演じるのは市原隼人さん(当時13歳)。敵役の星野を演じるのは忍成修吾さん。そして、ヒロインには、蒼井優さんと伊藤歩さん。。今見返してみると、豪華な顔ぶれですね。もちろん当時は無名で、全員、オーディションで合格したそうです。おそらく岩井監督の目論見なのでしょうが、「演じている」という感じはほとんどありません。ただ、そこにいる、そこにいて起こったことに反応している、という感じです。それがこの年代の少年少女らしく、新鮮に感じられました。
<印象的なシーン>
劇中には、津田詩織と久野陽子、二人のヒロインが登場します。その対比がとても明確に描かれており、印象に残りました。
津田詩織は、星野に弱みを握られ、中年男性を相手に売春を強要されています。男がみんな客に見えてきて、同級生から告白されても、素直に喜ぶこともできません。蓮見に「デブになったら売春なんてしなくて済むかな」と嘆くのですが、そこまでやる覚悟はありません。何となく、流されるように生きています。
一方、蓮見の憧れの同級生・久野陽子は、とても強い女性として描かれています。才色兼備故に同性から嫉妬され、いじめを受けていますが、物怖じすることもありません。同じく優等生でありながら脱落した星野にとって、その「眩しさ」は許せるものではありません。ある時、星野の指示により、レイプされてしまいます。しかし、久野は怯むことなく、その翌日、頭を丸坊主にして学校に登校してきます。この「丸坊主具合」がすごいのです。自分でバリカンで剃ったのが明らかなのです(カツラではなく、本当に剃ったそうです)。
2015年6月26日金曜日
映画目録「横道世之介」
<あらすじ>
大学進学のために、長崎から上京してきた一人の若者(横道世之介)。勧誘を断りきれずにサンバサークルに入ってしまう「極度のお人好し」と思えば、クーラー目当てで親しくもない友人の部屋に入り浸る「図々しさ」を持ち合わせた、どこか憎めない性格。世之介を中心に、夢や希望など大それたものはないけれど、人生を必死で生きようとする若者達の姿を描いた青春ストーリー。1987年当時と、20年後の世界を生きる、かつての友人・知人達が世之介を思い返しながら、ストーリーは進行していく。
※監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一さん。脚本は前田司郎さんと共同執筆
※原作は吉田修一さんの小説「横道世之介」
<多分ここが面白いところ>
・afterではなく、beforであるところ
映画は、過去と未来をいったりきたりします。それは世之介の死を境にしたbeforとafterの世界であると同時に「人生を選び取った瞬間」から見てbeforとafterという作りになっています。beforの世界では、登場人物達は悪戦苦闘しながらも、それぞれが世之介との出会いを通じて、自分の人生を選び取るまでが描かれています。たとえば、子供ができた倉持は、大学をやめて、パパになることを選びます。ゲイであることをカミングアウトした加藤は、その道を受け入れます。千春は娼婦をやめて、まっとうに生きることを選びます。親の庇護に甘えていた祥子は、海外青年協力隊の道を選びます。具体的に何をどうやって選び取ったのかは描かれていませんが、afterで、選び取った人生を必死で生きている姿が描かれています。世の中には「夢をもち、それを叶えるまでの物語(after)」はたくさんありますが、このように「夢を(人生を選ぶ)持つまでの物語(befor)」はとても珍しく、その作り方もとても面白いと思います。「選ぶ」ということの尊さや大切さが、ひしひしと伝わってきました。
・きっかけを作っているのが「世之介」だということ
登場人物達が、人生を選び取る瞬間には、世之介が介在しています。たとえば、子供ができた責任感から大学を辞め、社会人になるという決断を下した倉持の場合。不安に押しつぶされそうな倉持を、世之介は「俺にできることがあったら何でもいってくれ」と励まします。「じゃあ、金」「いいよ」「……嘘だよ(笑)」「いいって、別に俺、金使わねえし」という感じです。たとえば、加藤の場合。自分がゲイであることをカミングアウトするのですが(おそらく人生初)、世之介はスイカを食べながら、あっけらかんとして「だから何だよ」と答えます。これらは、彼らのその後の人生を左右する瞬間なのですが、だからといって、力強く勇気づける見せ場的なシーンではなく、本当に何気ない会話として描かれています。そこが、素晴らしいと思いました。現実社会でも人生を変える瞬間って、概ね、こういうものだと思います。
<印象的なシーン>
世之介が夜中のコインランドリーで、一人サンバを踊るところです。グルグル回る洗濯物は、おそらく、翻弄される人生・無力な自分を暗諭していると思います。その中で「行動すること・選び取ること」の大切を本能的に察した青年が、突然サンバを踊り出す。アクションとして、ふさわしい行為だと思いました。青春とは甘く・ほろ苦いと言いますが、いつの時代も、その瞬間を生きる若者にとっては、辛く、過酷なものです。世之介が夜中のコインランドリーで我を忘れてサンバを踊る姿に、私もあの時代を思い出して、泣きそうになりました。
大学進学のために、長崎から上京してきた一人の若者(横道世之介)。勧誘を断りきれずにサンバサークルに入ってしまう「極度のお人好し」と思えば、クーラー目当てで親しくもない友人の部屋に入り浸る「図々しさ」を持ち合わせた、どこか憎めない性格。世之介を中心に、夢や希望など大それたものはないけれど、人生を必死で生きようとする若者達の姿を描いた青春ストーリー。1987年当時と、20年後の世界を生きる、かつての友人・知人達が世之介を思い返しながら、ストーリーは進行していく。
※監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一さん。脚本は前田司郎さんと共同執筆
※原作は吉田修一さんの小説「横道世之介」
<多分ここが面白いところ>
・afterではなく、beforであるところ
映画は、過去と未来をいったりきたりします。それは世之介の死を境にしたbeforとafterの世界であると同時に「人生を選び取った瞬間」から見てbeforとafterという作りになっています。beforの世界では、登場人物達は悪戦苦闘しながらも、それぞれが世之介との出会いを通じて、自分の人生を選び取るまでが描かれています。たとえば、子供ができた倉持は、大学をやめて、パパになることを選びます。ゲイであることをカミングアウトした加藤は、その道を受け入れます。千春は娼婦をやめて、まっとうに生きることを選びます。親の庇護に甘えていた祥子は、海外青年協力隊の道を選びます。具体的に何をどうやって選び取ったのかは描かれていませんが、afterで、選び取った人生を必死で生きている姿が描かれています。世の中には「夢をもち、それを叶えるまでの物語(after)」はたくさんありますが、このように「夢を(人生を選ぶ)持つまでの物語(befor)」はとても珍しく、その作り方もとても面白いと思います。「選ぶ」ということの尊さや大切さが、ひしひしと伝わってきました。
・きっかけを作っているのが「世之介」だということ
登場人物達が、人生を選び取る瞬間には、世之介が介在しています。たとえば、子供ができた責任感から大学を辞め、社会人になるという決断を下した倉持の場合。不安に押しつぶされそうな倉持を、世之介は「俺にできることがあったら何でもいってくれ」と励まします。「じゃあ、金」「いいよ」「……嘘だよ(笑)」「いいって、別に俺、金使わねえし」という感じです。たとえば、加藤の場合。自分がゲイであることをカミングアウトするのですが(おそらく人生初)、世之介はスイカを食べながら、あっけらかんとして「だから何だよ」と答えます。これらは、彼らのその後の人生を左右する瞬間なのですが、だからといって、力強く勇気づける見せ場的なシーンではなく、本当に何気ない会話として描かれています。そこが、素晴らしいと思いました。現実社会でも人生を変える瞬間って、概ね、こういうものだと思います。
<印象的なシーン>
世之介が夜中のコインランドリーで、一人サンバを踊るところです。グルグル回る洗濯物は、おそらく、翻弄される人生・無力な自分を暗諭していると思います。その中で「行動すること・選び取ること」の大切を本能的に察した青年が、突然サンバを踊り出す。アクションとして、ふさわしい行為だと思いました。青春とは甘く・ほろ苦いと言いますが、いつの時代も、その瞬間を生きる若者にとっては、辛く、過酷なものです。世之介が夜中のコインランドリーで我を忘れてサンバを踊る姿に、私もあの時代を思い出して、泣きそうになりました。
2015年6月10日水曜日
映画目録「複製された男」
<あらすじ>
大学で講師を務めるアダム。大学と家を往復して、たまに恋人とセックスするだけの単調な日常に嫌気がさしている。そんなある日、偶然目にした映画の中に、自分と瓜二つの男アンソニーを見つける。興味を持ったアダムは、アンソニーの周囲を調べ、居所を突き止める。実は2人は顔、声、生年月日、更には体にできた傷痕まで一致していた。初めは面白半分だったアダムだが、徐々に恐怖を覚え始める。やがて、アダムの恋人やアンソニーの妻をも巻き込み、とんでもない事態に。
※監督は「プリズナーズ」「灼熱の魂」などを手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ
<多分ここが面白いところ>
・公式サイトのキャッチコピー
「脳力が試される、究極の心理ミステリー あなたは一度で見抜けるか―」
・私は、こういうことを全く意識せず観たせいもあり、
何も分からないまま終わってしまいました。
後で、映画通の友人から「実はこういうことなんだよ」と説明を受けて
「なるほどーそういえば…」と思った口です。あしからず。
・ネタを明かせば、アダムとアンソニーは人格が違うだけで、同じ人間です。
古い言い方をすれば「二重人格」というところでしょうか。
アダム=浮気している自分 アンソニー=妻と子供を愛している自分
アダム=平凡な大学講師 アンソニー=華やかな俳優業
・「浮気している時は、妻が恋しくなり、
妻と一緒にいる時は、愛人が恋しくなる」
「会社にいれば、家に帰りたくなり、家にいたら、会社に行きたくなる」
みなさんも日常生活でも、身勝手すぎる矛盾って感じたことありませんか?
それと同じように、この男は
アダムでいるときは、アンソニーになりたいと思い、
アンソニーでいるときは、アダムになりたいと思う。
それが高じた結果、分裂した人格になってしまったわけですね。
・この映画は、これを違う人間としてその日常を
「切り取り」「つなぎ合わせた」ことが新しいのだと思います。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、こういった仕掛けが好きだし、本当に上手いですね。
<印象的なシーン>
アダムがアンソニーに電話をかけてきて、
それを「誰から?」と奥さんが怪しむシーンがあります。
「あなた浮気してるんじゃないの」って。
初めて観ている時は、何とも思わなかったし、
正直、「奥さんうざい」ぐらい思っていたのですが、
真相を知って、思い返してみると、
何とも奥さんが可哀想で可哀想で…。
実際、浮気相手からの電話で、本当に浮気をしていたんですよね。
それを必死こいて言い繕っていたんですよ、あれは。
うーん。物事の見方って、ちょっとしたことでこんなに変わるんですね。
大学で講師を務めるアダム。大学と家を往復して、たまに恋人とセックスするだけの単調な日常に嫌気がさしている。そんなある日、偶然目にした映画の中に、自分と瓜二つの男アンソニーを見つける。興味を持ったアダムは、アンソニーの周囲を調べ、居所を突き止める。実は2人は顔、声、生年月日、更には体にできた傷痕まで一致していた。初めは面白半分だったアダムだが、徐々に恐怖を覚え始める。やがて、アダムの恋人やアンソニーの妻をも巻き込み、とんでもない事態に。
※監督は「プリズナーズ」「灼熱の魂」などを手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ
<多分ここが面白いところ>
・公式サイトのキャッチコピー
「脳力が試される、究極の心理ミステリー あなたは一度で見抜けるか―」
・私は、こういうことを全く意識せず観たせいもあり、
何も分からないまま終わってしまいました。
後で、映画通の友人から「実はこういうことなんだよ」と説明を受けて
「なるほどーそういえば…」と思った口です。あしからず。
・ネタを明かせば、アダムとアンソニーは人格が違うだけで、同じ人間です。
古い言い方をすれば「二重人格」というところでしょうか。
アダム=浮気している自分 アンソニー=妻と子供を愛している自分
アダム=平凡な大学講師 アンソニー=華やかな俳優業
・「浮気している時は、妻が恋しくなり、
妻と一緒にいる時は、愛人が恋しくなる」
「会社にいれば、家に帰りたくなり、家にいたら、会社に行きたくなる」
みなさんも日常生活でも、身勝手すぎる矛盾って感じたことありませんか?
それと同じように、この男は
アダムでいるときは、アンソニーになりたいと思い、
アンソニーでいるときは、アダムになりたいと思う。
それが高じた結果、分裂した人格になってしまったわけですね。
・この映画は、これを違う人間としてその日常を
「切り取り」「つなぎ合わせた」ことが新しいのだと思います。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、こういった仕掛けが好きだし、本当に上手いですね。
<印象的なシーン>
アダムがアンソニーに電話をかけてきて、
それを「誰から?」と奥さんが怪しむシーンがあります。
「あなた浮気してるんじゃないの」って。
初めて観ている時は、何とも思わなかったし、
正直、「奥さんうざい」ぐらい思っていたのですが、
真相を知って、思い返してみると、
何とも奥さんが可哀想で可哀想で…。
実際、浮気相手からの電話で、本当に浮気をしていたんですよね。
それを必死こいて言い繕っていたんですよ、あれは。
うーん。物事の見方って、ちょっとしたことでこんなに変わるんですね。
2015年5月22日金曜日
NHKドラマ「64」の放送終了に寄せて(原作との相違点とその理由)
NHKドラマの「64」(全5話)が先日終了しました。
面白かったので、原作(横山秀夫さん著)も読んでみました。
◆原作との違い
基本的には「原作をできるだけ活かす形」になっています。
登場人物も構成も台詞も、ほぼ忠実に再現されていました。
大きく異なっていると思われた箇所は以下の通りです。
◇歴代の刑事部長は登場させない
原作では、尾坂部、大館など、既に引退した歴代の刑事部長達が登場します。
三上は「幸田メモ」「長官視察の目的」を追い求めて、彼らの自宅を訪問し、
そのやりとりを通じて「自分のやるべきこと」を見つめ直していきます。
しかし、ドラマでは、この辺りの描写が一切ありません。
その代わりに「刑事は世の中で一番楽な仕事」などの名言を吐き、
三上をリードする尾坂部の役割は、捜査一課長の松岡に負わせています。
※死の床から電話をかけ、三上の迷いを断ち切る大館の役割もおそらく分散させているかと。
<考えられる理由>
・登場人物がただでさえ多く、これ以上増やすと混乱するため
※刑事部長は現職の荒木田だけで十分。
・刑事部全員が敵に回る中、三上の唯一の理解者は捜査一課長の松岡だけ
というように登場人物が担う「役割」を徹底させるため
◇刑事部の報復は最小限にとどめる
原作では「刑事部長の召し上げ」という警務部・本庁のやり方に対し、
・留置管理係が女性留置人にわいせつ行為を働いていたこと
・留置管理係が居眠りをしていた隙に留置人が自殺してしまったことなど
刑事部は「警務部のミスをマスコミにリークする」というやり方で報復を試みています。
これに対し、ドラマではこの部分はすべてカットされています。
刑事部の報復行為は「誘拐事件の情報を出し惜しみする」というやり方に集約されています。
<考えられる理由>
・「留置管理」は一般の視聴者にはなじみが薄いため
・刑事部の抵抗を複数のやり方で分散させると、かえって意図が伝わりにくいため
◇登場人物の過去をあえて伝えない
原作では、三上が広報官になった経緯、
更に三上と二渡の不仲の理由、美那子とのなれ初めなど、
「バックグラウンド」がかなり丁寧に描かれていますが、
ドラマではすべてカットされています。
<考えられる理由>
・尺が足りないため。
・時間軸をこれ以上混乱させないため。
ドラマは、平成14年と誘拐事件のあった昭和64年をいったりきたりしています。
これ以上、過去のエピソードを盛り込むと、今が一体いつの話なのか、
視聴者が混乱する恐れがあったため、やむなく削ったのだと思われます。
※唯一、バックグラウンドとして残したのは、「あゆみが家を出て行った経緯」のみ。
◇記者会見の場を特に強調している
D県警は誘拐事件(平成14年の方)発生後、報道協定のもと記者会見を開催します。
記者会見を仕切る三上達、広報部のメンバーは
記者達に誘拐事件の報道を差し控えさせる代わりに、
刑事部の捜査状況を事細かく教えなければならないのですが、
刑事部は以下のような嫌がらせに出ます。
・記者会見をキャリアの浅い捜査二課長にやらせる
(本来刑事部長か捜査一課長がやるべきもの)
・情報を出し惜しみする(できるだけ小出しにする)
もちろん、記者達は納得がいきません。
「お前じゃ話にならん」と上層部を呼び出すように促し、
それができないと分かると、お飾りの捜査二課長に対して
「もっと詳しく」「今すぐ聞いてきて」などと煽って
その都度、会議場と捜査室を行ったり来たりさせるという「いじめ」に出ます。
徐々に疲弊していく捜査二課長と広報部の面々達。
苛立ちを増していく記者達。
やがて、暴動が起こり、その結果、
三上はやむなく「一課長を連れてくる」と約束させられることとなります。
この件は原作では293頁~316頁、わずか23頁という分量にすぎませんが、
ドラマでは第4話の大半(約40分)を費やす徹底ぶりです。
<考えられる理由>
・広報の存在意義を分かりやすく伝えるため
警察組織内における広報部の存在意義は「記者対策」に集約されますが、
小説では文章を手厚くしてその実態を伝えることが可能ですが、
映像メインのドラマではそうはいきません。説明臭くなってしまいます。
「映像としてどうやって伝えるか・魅せるか」
おそらく、ドラマの制作者の方々はその部分を悩み抜き、
その上で「この記者会見こそ見せ場だ」と思ったのだと思います。
この後、記者会見を抜け出した三上は
記者会見で頑張る広報部のメンバーのために、
また「うちのD県警が舐められるのは悔しい」と言ってくれる記者クラブの面々のために
「松岡に名前をリークするよう詰め寄る」「捜査式車に乗り込んで広報実況する」
という組織の構成員として考えられないような行動に出ます。
こういった考えられないような行動をとらせるためにも、
「大勢の記者達を前に、なすすべなく打ちのめされる」
というこの記者会見シーンを厚くする必要があったのだと思います。
◆追記
・制作したのは、以前、同局・同原作者の「クライマーズ・ハイ」を制作したのと同じチーム。
・音楽を手掛けたのは、あまちゃんの音楽も手掛けた大友良英さん。
※冒頭の「ぎゅいーん」という効果音が素晴らしかったです
・脚本は「クライマーズ・ハイ」も手掛けている大森寿美男さん。
・「64」はドラマ化に続き、2016年には2部作として映画化予定
http://www.cinra.net/news/20150326-rokuyon
キャストがすごいです。佐藤浩市、綾野剛、榮倉奈々、瑛太、三浦友和、永瀬正敏、吉岡秀隆、仲村トオル、椎名桔平、滝藤賢一、奥田瑛二、夏川結衣、緒形直人、窪田正孝(敬称略)
※秋山役を兄弟で演じ分け!(ドラマは永山絢斗さん、映画は瑛太さん)
面白かったので、原作(横山秀夫さん著)も読んでみました。
◆原作との違い
基本的には「原作をできるだけ活かす形」になっています。
登場人物も構成も台詞も、ほぼ忠実に再現されていました。
大きく異なっていると思われた箇所は以下の通りです。
◇歴代の刑事部長は登場させない
原作では、尾坂部、大館など、既に引退した歴代の刑事部長達が登場します。
三上は「幸田メモ」「長官視察の目的」を追い求めて、彼らの自宅を訪問し、
そのやりとりを通じて「自分のやるべきこと」を見つめ直していきます。
しかし、ドラマでは、この辺りの描写が一切ありません。
その代わりに「刑事は世の中で一番楽な仕事」などの名言を吐き、
三上をリードする尾坂部の役割は、捜査一課長の松岡に負わせています。
※死の床から電話をかけ、三上の迷いを断ち切る大館の役割もおそらく分散させているかと。
<考えられる理由>
・登場人物がただでさえ多く、これ以上増やすと混乱するため
※刑事部長は現職の荒木田だけで十分。
・刑事部全員が敵に回る中、三上の唯一の理解者は捜査一課長の松岡だけ
というように登場人物が担う「役割」を徹底させるため
◇刑事部の報復は最小限にとどめる
原作では「刑事部長の召し上げ」という警務部・本庁のやり方に対し、
・留置管理係が女性留置人にわいせつ行為を働いていたこと
・留置管理係が居眠りをしていた隙に留置人が自殺してしまったことなど
刑事部は「警務部のミスをマスコミにリークする」というやり方で報復を試みています。
これに対し、ドラマではこの部分はすべてカットされています。
刑事部の報復行為は「誘拐事件の情報を出し惜しみする」というやり方に集約されています。
<考えられる理由>
・「留置管理」は一般の視聴者にはなじみが薄いため
・刑事部の抵抗を複数のやり方で分散させると、かえって意図が伝わりにくいため
◇登場人物の過去をあえて伝えない
原作では、三上が広報官になった経緯、
更に三上と二渡の不仲の理由、美那子とのなれ初めなど、
「バックグラウンド」がかなり丁寧に描かれていますが、
ドラマではすべてカットされています。
<考えられる理由>
・尺が足りないため。
・時間軸をこれ以上混乱させないため。
ドラマは、平成14年と誘拐事件のあった昭和64年をいったりきたりしています。
これ以上、過去のエピソードを盛り込むと、今が一体いつの話なのか、
視聴者が混乱する恐れがあったため、やむなく削ったのだと思われます。
※唯一、バックグラウンドとして残したのは、「あゆみが家を出て行った経緯」のみ。
◇記者会見の場を特に強調している
D県警は誘拐事件(平成14年の方)発生後、報道協定のもと記者会見を開催します。
記者会見を仕切る三上達、広報部のメンバーは
記者達に誘拐事件の報道を差し控えさせる代わりに、
刑事部の捜査状況を事細かく教えなければならないのですが、
刑事部は以下のような嫌がらせに出ます。
・記者会見をキャリアの浅い捜査二課長にやらせる
(本来刑事部長か捜査一課長がやるべきもの)
・情報を出し惜しみする(できるだけ小出しにする)
もちろん、記者達は納得がいきません。
「お前じゃ話にならん」と上層部を呼び出すように促し、
それができないと分かると、お飾りの捜査二課長に対して
「もっと詳しく」「今すぐ聞いてきて」などと煽って
その都度、会議場と捜査室を行ったり来たりさせるという「いじめ」に出ます。
徐々に疲弊していく捜査二課長と広報部の面々達。
苛立ちを増していく記者達。
やがて、暴動が起こり、その結果、
三上はやむなく「一課長を連れてくる」と約束させられることとなります。
この件は原作では293頁~316頁、わずか23頁という分量にすぎませんが、
ドラマでは第4話の大半(約40分)を費やす徹底ぶりです。
<考えられる理由>
・広報の存在意義を分かりやすく伝えるため
警察組織内における広報部の存在意義は「記者対策」に集約されますが、
小説では文章を手厚くしてその実態を伝えることが可能ですが、
映像メインのドラマではそうはいきません。説明臭くなってしまいます。
「映像としてどうやって伝えるか・魅せるか」
おそらく、ドラマの制作者の方々はその部分を悩み抜き、
その上で「この記者会見こそ見せ場だ」と思ったのだと思います。
この後、記者会見を抜け出した三上は
記者会見で頑張る広報部のメンバーのために、
また「うちのD県警が舐められるのは悔しい」と言ってくれる記者クラブの面々のために
「松岡に名前をリークするよう詰め寄る」「捜査式車に乗り込んで広報実況する」
という組織の構成員として考えられないような行動に出ます。
こういった考えられないような行動をとらせるためにも、
「大勢の記者達を前に、なすすべなく打ちのめされる」
というこの記者会見シーンを厚くする必要があったのだと思います。
◆追記
・制作したのは、以前、同局・同原作者の「クライマーズ・ハイ」を制作したのと同じチーム。
・音楽を手掛けたのは、あまちゃんの音楽も手掛けた大友良英さん。
※冒頭の「ぎゅいーん」という効果音が素晴らしかったです
・脚本は「クライマーズ・ハイ」も手掛けている大森寿美男さん。
・「64」はドラマ化に続き、2016年には2部作として映画化予定
http://www.cinra.net/news/20150326-rokuyon
キャストがすごいです。佐藤浩市、綾野剛、榮倉奈々、瑛太、三浦友和、永瀬正敏、吉岡秀隆、仲村トオル、椎名桔平、滝藤賢一、奥田瑛二、夏川結衣、緒形直人、窪田正孝(敬称略)
※秋山役を兄弟で演じ分け!(ドラマは永山絢斗さん、映画は瑛太さん)
2015年5月8日金曜日
NHK土曜ドラマ「64」が面白い
現在放映中のNHK(10:00~)の
ドラマ「64(ロクヨン)」が面白いです。
http://www.nhk.or.jp/dodra/rokuyon/
※5/16(土)が最終話放送
<ざっと紹介>
主人公は、県警広報室の室長・三上(ピエール瀧)
何か事件が起こった際に、
「被害者や犯人の個人情報をどの程度明らかにするか」
マスコミ向けの警察発表を取り仕切る仕事です。
ドラマは昭和64年に管轄内で発生した、
少女誘拐殺害事件が近々、時効を迎えるに当たり、
突然、警察庁長官が遺族を慰問しに来る、
というところからスタートします。
少女誘拐殺害事件の元担当刑事ということから、
その遺族対応・マスコミ対策を任された三上ですが、
遺族からは慰問拒否、記者からは取材ボイコットを言い渡されます。
理由が分からないまま、事態を打破しようと
当時の関係者のもとを駆けずり回る三上ですが
関係者はみな事件に関して口を閉ざすばかり。
やがて、三上は少女誘拐殺害事件に隠された
巨大な警察内部の不正に気付いてしまいます。
長官慰問の日程が迫るなかで、
刑事仲間からは「刑事に戻りたければ、黙っていろ」と脅され
記者連中からは「警察なんか信用できない」と叩かれ
部下からは「自分の正義だけ貫けばそれで満足なんですか」と突き上げられる中、
三上は果たして、どんな決断を下すのか。
<ここが面白い>
「県警広報室」という舞台は
刑事モノとしては、かなり目新しいと思います。
多少、取っつきにくい感じもしますが
・上層部から不正・隠蔽の片棒を担ぐよう命じられる
・記者や部下からは正義を盾に突き上げを食らう
理想と現実のはざまで板挟みになって苦悩する姿は
まさに「THE中間管理職」。
その悲哀は、一般企業となんら変わりありません。
おまけに三上は現在、高校生になる娘が失踪中で安否不明。
醜形恐怖症に陥った娘の「整形したい」という思いを理解できず、
無理に引っ張り出し、顔を叩いてしまった…
「自分のせいだ」と強く自分を責めています。
中間管理職として、元刑事として、父親として
主人公の三重苦が、ドラマをたまらなく面白くさせています。
<印象的なシーン>
三上の部下である広報室の女性職員が、
決裂した記者との関係を修復しようと
記者を接待する(飲みに出かける)のですが
それを知った三上に「お前が汚れ仕事をすることはない」と
一喝されるシーンがあります。
これに対して、女性職員が言った台詞がものすごくいいです。
「汚れ仕事は自分だけでやって、
キレイなところは全部私に押し付けて、
それで自分にはまだ汚れていない部分があるなんて、
……そんなのずるいです」
この台詞は、女性職員に自らの娘を重ね合わせ、
いつまでも子離れできていなかった三上の心を
ズギューンと打ち抜きます。
どちらが間違っているという、
単純な善悪の問題ではなく、
三上には三上の正義があって、
女性職員には女性職員の正義がある。
世の中には、一人ひとりに立場があるわけです。
娘(女性職員)を守りたい一心で
結局は、自分の正義しか考えていなかった。
そのことに気づいた三上は、
この夜を境に変わります。
部下を信じる、記者を信じる、そして娘を信じるようになります。
ドラマの重要なターニングポイントを
台詞一つでしっかり描いた、本当に素晴らしいシーンだったと思います。
ドラマ「64(ロクヨン)」が面白いです。
http://www.nhk.or.jp/dodra/rokuyon/
※5/16(土)が最終話放送
<ざっと紹介>
主人公は、県警広報室の室長・三上(ピエール瀧)
何か事件が起こった際に、
「被害者や犯人の個人情報をどの程度明らかにするか」
マスコミ向けの警察発表を取り仕切る仕事です。
ドラマは昭和64年に管轄内で発生した、
少女誘拐殺害事件が近々、時効を迎えるに当たり、
突然、警察庁長官が遺族を慰問しに来る、
というところからスタートします。
少女誘拐殺害事件の元担当刑事ということから、
その遺族対応・マスコミ対策を任された三上ですが、
遺族からは慰問拒否、記者からは取材ボイコットを言い渡されます。
理由が分からないまま、事態を打破しようと
当時の関係者のもとを駆けずり回る三上ですが
関係者はみな事件に関して口を閉ざすばかり。
やがて、三上は少女誘拐殺害事件に隠された
巨大な警察内部の不正に気付いてしまいます。
長官慰問の日程が迫るなかで、
刑事仲間からは「刑事に戻りたければ、黙っていろ」と脅され
記者連中からは「警察なんか信用できない」と叩かれ
部下からは「自分の正義だけ貫けばそれで満足なんですか」と突き上げられる中、
三上は果たして、どんな決断を下すのか。
<ここが面白い>
「県警広報室」という舞台は
刑事モノとしては、かなり目新しいと思います。
多少、取っつきにくい感じもしますが
・上層部から不正・隠蔽の片棒を担ぐよう命じられる
・記者や部下からは正義を盾に突き上げを食らう
理想と現実のはざまで板挟みになって苦悩する姿は
まさに「THE中間管理職」。
その悲哀は、一般企業となんら変わりありません。
おまけに三上は現在、高校生になる娘が失踪中で安否不明。
醜形恐怖症に陥った娘の「整形したい」という思いを理解できず、
無理に引っ張り出し、顔を叩いてしまった…
「自分のせいだ」と強く自分を責めています。
中間管理職として、元刑事として、父親として
主人公の三重苦が、ドラマをたまらなく面白くさせています。
<印象的なシーン>
三上の部下である広報室の女性職員が、
決裂した記者との関係を修復しようと
記者を接待する(飲みに出かける)のですが
それを知った三上に「お前が汚れ仕事をすることはない」と
一喝されるシーンがあります。
これに対して、女性職員が言った台詞がものすごくいいです。
「汚れ仕事は自分だけでやって、
キレイなところは全部私に押し付けて、
それで自分にはまだ汚れていない部分があるなんて、
……そんなのずるいです」
この台詞は、女性職員に自らの娘を重ね合わせ、
いつまでも子離れできていなかった三上の心を
ズギューンと打ち抜きます。
どちらが間違っているという、
単純な善悪の問題ではなく、
三上には三上の正義があって、
女性職員には女性職員の正義がある。
世の中には、一人ひとりに立場があるわけです。
娘(女性職員)を守りたい一心で
結局は、自分の正義しか考えていなかった。
そのことに気づいた三上は、
この夜を境に変わります。
部下を信じる、記者を信じる、そして娘を信じるようになります。
ドラマの重要なターニングポイントを
台詞一つでしっかり描いた、本当に素晴らしいシーンだったと思います。
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